室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる戦国最強の鉄砲集団「雑賀衆」-歴史系ライターがわかりやすく解説

日本が戦国時代真っただ中だった1543年、九州の南に位置する種子島に鉄砲が伝来しました。遠距離からでも敵を狙撃できるその画期的な武器は、合戦の戦法そのものを変えたともいわれていますね。そして織田信長、豊臣秀吉といった戦国の英雄たちの陰にあって、その火力と技量をもって近隣を恐れさせたのが紀州(現在の和歌山県)に根を張っていた「雑賀衆(さいかしゅう)」という鉄砲傭兵集団だったのです。しかし、彼らの本当の姿は謎に包まれた部分が多く、頭目といわれた雑賀孫市の存在すらきちんと実証されていません。そこで「雑賀衆」にスポットを当て、彼らはいったい何者だったのか?またなぜ戦いに明け暮れていたのか?多くの謎を紐解いていきたいと思います。

1.雑賀衆とはどういった集団だったのか?

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雑賀衆は元々、主君に仕官したれっきとした武士ではなく、そして農民でもなく、「土豪」という身分の人たちの集合体でした。農繁期には農業を営み、戦いの際には鍬や鎌の代わりに火縄銃や刀槍を携えるという生活をしていたそうです。まずは、雑賀衆という武装集団はどういった存在だったのか?解き明かしていきましょう。

1-1.「さいが」?それとも「さいか」?

雑賀は「さいが」ではなく、正しくは「さいか」と読みます。

そういえば神奈川県にあるデパートチェーンの「さいか屋」も同じ「さいか」ですが、江戸時代の紀州和歌山藩主で、のちに将軍となる徳川吉宗の時に、雑賀衆の末裔たちも吉宗に同行し、現在の神奈川県横須賀市あたりに住みついたそうです。

後年、末裔のひとり岡本傳兵衛が呉服屋を開業したそうですが、これが現在の「さいか屋」になったとのこと。そういえば現在の社長さんも岡本さんでしたっけ。

また「雑賀」はもともと地名なのですが、現在の和歌山市を流れる紀の川の河口付近に位置し、秋葉山公園という市民の憩いの場が雑賀鈴木氏の本拠地だった弥勒寺山城だったとされています。

1-2.「雑賀」の言葉の由来とは?

太古から海だったその紀の川河口周辺は、海辺が西へ移るにつれて広い野原となっていたそうです。奈良時代には、時の聖武天皇が玉津島頓宮に行幸され、雑賀野に離宮を造られました。

その時に山部赤人が唄った長歌が万葉集に載っています。

 

やすみしし わご大君の 常宮と 仕へまつれる 雑賀野ゆ

そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白浪さわき

潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より 然そ貴き 玉津島山

引用元 「万葉集」巻六より

 

雄大な太平洋を目前にした、大自然豊かな景観を褒めたたえた歌で、紀の川河口の肥沃な土地であることから雑賀野と名付けられました。様々な恩恵や豊穣を与えてくれる海や川【雑】と、「繁栄・発展」の喜びを表す【賀】を組み合わせたのが「雑賀」という土地の由来だったのです。

1-3.熊野神社から派生した「鈴木さん」

日本で最も多い苗字といえば「鈴木」もその一つ。その祖先をたどれば熊野速玉(はやたま)神職から発することになります。

平安時代以降に熊野信仰が盛んとなり、各地に勧請されて熊野神社が全国へ広がっていくと共に、神職の鈴木氏も日本各地に広まっていったということになりますね。

そう。全国の鈴木さんのご先祖は、熊野神社の神主さんと言っても過言ではないでしょう。

1-4.雑賀衆のリーダー的存在となった雑賀鈴木氏

もちろん、熊野本宮大社がある紀州にも鈴木氏は存在していました。その中でも穂積鈴木氏は、平安時代に熊野別当として権勢を振るい、大きな勢力を誇りました。

そして分家として紀の川河口の雑賀の地へ移住してきたのが雑賀鈴木氏。代々神職を務めた名家の家柄でしたから、次第に近隣の土豪たちの盟主的存在となり、地域のリーダーとして辣腕を振るうことになるのです。

1-5.鉄砲を手に傭兵集団となった雑賀衆

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By 落合芳幾 – 『太平記英勇傳 鈴木孫市』 (http://morimiya.net/online/ukiyoe-big-files/U952.html), パブリック・ドメイン, Link

戦国時代の紀州は、これといった統率者が存在せず、畠山氏という守護大名は存在していたものの有名無実となっていました。雑賀衆の他にも根来寺、湯川氏、玉置氏といった武装集団が混在しており、それぞれ独立した勢力となっていたのです。

その中で雑賀衆の所領はわずか7万石ほど。根来寺を本拠にする根来衆ですら72万石もの寺領を持っていましたから、いかに小勢力だったかがわかりますね。では、なぜ雑賀衆が近隣から恐れられるほどの存在になれたのでしょう?

それは日本へ伝来したばかりの鉄砲に起因しています。紀州へ最初に鉄砲を持ち込んだのは、根来衆の津田算長(つだかずなが)だといわれていますが、隣の雑賀へも鉄砲が伝わっていたはずですし、何らかの理由で鉄砲の数を大量に揃え、技量を磨き、各地の戦場で雇われては働くことになったのですね。

1-6.雑賀孫市の登場

そして雑賀衆には抜群の統率力を持つリーダーがいました。彼の名こそ雑賀孫市。鈴木重秀、鈴木佐太夫、鈴木重朝、平井孫一など史料によって様々な呼称はありますが、ここではカッコよく雑賀孫市と呼ばせて頂きます。

しかもヒーローにありがちな逸話にも事欠かない人物で、織田信長よりも先に三段撃ちを考案したとか、信長を狙撃したとか、撃てば百発百中で100メートル離れた先の小さな針ですら撃ち抜いたなど、稀代の戦国ガンマンとして知られていますよね。(おそらくは後世の創作の可能性が大)

孫市の数々の活躍は、かの司馬遼太郎の小説「尻啖え孫市」の中でも痛快に描かれています。

2.雑賀衆の棟梁「雑賀孫市」の活躍とは?

家紋
Mekugi投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

毎年、和歌山市鷺森周辺で開催されている「孫市まつり」という催しがあります。「孫市は和歌山の宝」を合言葉に、孫市に対する郷土愛はとても熱く深いもの。そんな市民から慕われている雑賀孫市活躍の歴史を紹介していきましょう。

2-1.とにかく謎が多い孫市伝説

孫市の苗字だけでも「鈴木」「平井」などがあり、孫市とはされているものの、「重秀」「重朝」「重意」「重次」という呼び名があるほど謎の多い人物なのです。

そのため現在に伝わっている彼の伝説や逸話など、本当のところはよくわからないというのが現実ですね。とはいえ雑賀衆の棟梁的立場の人物が実在していたことは確かですので、孫市の事績をひも解いていくことにしましょう。

現在わかっているところでは、雑賀衆全体の盟主ではなく、いくつかの集団を束ねる頭目的な存在だったのではないかとされています。また孫市の事績については、あまりに不明な点も多いため、ある程度は仮説も含めることにしますね。

2-2.鉄砲傭兵集団のリーダーとして頭角を表す孫市

紀州雑賀荘平井村を支配していた雑賀鈴木家は、その石高は600石ほど。雑賀衆を構成する土豪層の一部でした。鈴木佐大夫が当主だった1534年頃に三男として孫市は生まれます。年齢的にはちょうど織田信長と同い年くらいでしょうか。

孫市の他には長兄の重朝と、次兄がいましたが、兄二人より射撃や武芸の才能は秀でたものがあったようです。孫市が元服する頃には、伝来したばかりの鉄砲がすでに隣の根来寺で製造され始め、雑賀荘にも相当な数が保有されていました。

孫市は年若い頃から鉄砲の修練に明け暮れ、いつしかその腕前は雑賀衆随一だと持て囃されるようになりました。各地の大名衆に雇われて戦場へ赴く彼らも、新兵器鉄砲によって武功を挙げ、雑賀衆の名も広く知られていたようです。

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明石則実