室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる絶世の美女・細川ガラシャの壮絶な人生!なぜキリシタンに?わかりやすく解説

戦国時代を代表する美女にして、最も壮絶な人生を送ったと言っても過言ではない細川ガラシャ。幸せな結婚生活を送っていた彼女の運命のターニングポイントは、父が起こした重大な事件でした。逆臣の娘と囁かれ、夫からの異常とも言える愛情をその身に受け続けた彼女が安らぎを見出したものが、キリスト教だったのです。彼女の人生はどんなものだったのか、ご紹介していきましょう。

1. 明智光秀の娘として…

image by PIXTA / 33288771

細川ガラシャの父は明智光秀。誰もが知っている本能寺の変の当事者であり、天下統一目前だった主君・織田信長を奇襲し死に追いやった武将です。これが起こる前までは、ガラシャは両親に愛され、夫とも仲睦まじく、幸せな日々を送っていました。彼女の運命を変えるまでをご紹介します。

1-1. 両親の愛情を受けて育つ

ガラシャが生まれたのは永禄6(1563)年のことでした。父は明智光秀、母は熙子(ひろこ)です。本名は玉(たま/珠)、玉子(珠子)とも言い、後にキリスト教の洗礼を受けてガラシャの名を得ますが、ここでは最初からガラシャで統一します。

両親は非常に仲睦まじく、父・光秀は愛妻家として有名でした。母・熙子も良妻賢母の鑑のような女性で、2人からの愛情を一身に受け、ガラシャは美しく成長していったのです。

1-2. 細川忠興との結婚

天正6(1578)年、16歳になったガラシャは、細川忠興(ほそかわただおき)に嫁ぎます。これには、父の主・織田信長の仲立ちがありました。また、父・光秀と忠興の父・細川藤孝は友人同士でもあったそうです。ガラシャの夫となった忠興も美男だったそうで、「人形のような一対だ」と信長は2人を見て喜んだとも伝わっています。

戦国時代は政略結婚が当然のことでしたが、ガラシャと忠興はとても仲の良い夫婦だったそうです。結婚の翌年には長女、その翌年には長男が誕生し、幸せな結婚生活がこのまま続いていくかに思えました。

しかし、天正10(1582)年、思いもよらない事件が起こったのです。

1-3. ガラシャの夫・細川忠興とは?

ガラシャの夫となった細川忠興とは、どのような武将だったのでしょうか。

細川藤孝の息子として生まれた忠興は、父同様織田信長に仕え、15歳で初陣を飾ると数々の戦いで功績を挙げ、武将として成長していきました。

信長の死後は秀吉に従い、九州征伐や小田原征伐、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で朝鮮半島に渡海するなど、勇猛果敢な武将として名を挙げていきます。

秀吉が亡くなると、関ヶ原の戦いでは徳川家康に付いて東軍となり、家康が江戸幕府を開いてからはその家臣となり、最終的には肥後熊本54万石の領地を持つ大大名となりました。

1-4. 後にガラシャの生活に影響を及ぼすようになる夫の性格

武将としては非常に優秀だった忠興ですが、性格は短期で時に苛烈をきわめ、身内でさえも容赦しないことがたびたびでした。妹の夫を攻め殺したこともあり、未亡人となった妹に斬りつけられ、鼻に横一文字の傷を負ったこともあります。

そんな性格により、後に父や弟、長男や二男との仲もぎくしゃくしてしまうこともありました。

とはいえ、晩年はかなり丸くなり、将軍へのアドバイスを行うなどしています。また、教養人としての側面もあり、千利休(せんのりきゅう)の弟子となっていたり、医学へ造詣を深めたりもしました。

1-5. 父が謀反、逆臣の娘となる

父・明智光秀は、突如として本能寺に滞在中の主君・織田信長を急襲し、あの信長を一瞬にして死に追いやってしまいました。これが本能寺の変ですね。

ほぼ天下人だった信長を倒した光秀は、その座になり替わるはずでした。しかし、あてにしていた武将たちの協力を得られず、孤立。その武将たちの中には、ガラシャが嫁いだ細川家も含まれていました。義父・細川藤孝、そして夫・忠興は、言を左右にして光秀の要請に応じず、結果、光秀が滅びるのを静観することとなりました。

そして、遠征していた豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)があっという間に帰還し、光秀と山崎の戦いで激突。加勢を得られなかった光秀は敗れ、彼の天下は「三日天下」と呼ばれるほどあっけなく崩れ去ったのです。落ち延びる途中、光秀は落ち武者狩りに遭って深手を負い、自害して果てました。

嫁ぎ先は光秀に加担しなかったので何もお咎めはありませんでしたが、ガラシャが光秀の娘という事実は変えようがありません。

こうして、ガラシャは一転、「逆臣の娘」とのそしりを受けるようになってしまったのでした。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: