2-6. キリスト教との出会い
夫との生活に疲れていったガラシャ。ちょうどこの頃、息子のひとりが生来病弱なこともあり、頭を悩ませる日々が続いていました。
そんな折、彼女は夫との会話からキリスト教のことを耳にします。戦国武将たちの中にはキリシタン大名も存在しており、彼らについて聞いたようです。
また、幽閉されていた時にそばにいた侍女・清原マリアがキリシタンだったこともあり、彼女はキリスト教に強い興味を抱くようになりました。そして、キリスト教の教えこそが、彼女の心に差し込んだ一条の光となったのです。
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2-7. 「ガラシャ」の洗礼名を授かる
そして彼女は、夫が九州へと遠征に行っている間に教会に通い、無断で洗礼を受けてしまいました。この時授かった洗礼名が「ガラシャ」。
この時から、彼女は「細川ガラシャ」となったのです。
九州征伐から帰ってきた夫・忠興は、ガラシャの洗礼を聞いて立腹しましたが、すでに時遅し。黙認せざるを得ない状況でした。
洗礼を受けたことで、ガラシャは変わったといいます。
日頃、気位が高く気性も激しかったという彼女ですが、以後は穏やかでつつましい性格になったのだそうですよ。
2-8. キリスト教の信仰はOKだったのか?
キリスト教に改宗した彼女ですが、当時、キリスト教は禁じられていなかったのでしょうか。
彼女が改宗したのは、忠興が九州征伐へ行っている天正14(1586)年から天正15(1587)年ごろ。この年には秀吉がバテレン追放令を出し、宣教師たちの退去を要請していましたが、個人の信仰についてとやかく言うことはありませんでした。外国との貿易は続いており、キリスト教は日本に流入し続け、キリシタン大名は相変わらず存在し、大名の妻でも改宗する者などが多くいたのです。
実質的な禁教となったのは、江戸幕府の慶長19(1614)年のことですから、ガラシャがキリスト教を信仰していても、罰せられるようなことはありませんでした。
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3. 夫の言いつけを守り、炎の中に消える
戦国時代も織田信長から豊臣秀吉へと主が代わり、秀吉が亡くなると、今度は徳川家康の時代がやって来ることとなります。それがほぼ決定したのが、天下分け目の戦いと称された関ヶ原の戦いでした。ガラシャにとっても、この戦いは彼女自身の命運を決定した出来事だったのです。彼女が迎えた壮絶な最期はどんなものだったのでしょうか?
3-1. 夫の非情な宣言
九州征伐から帰ってきた途端、忠興はガラシャに対し、「俺は側室を5人持つぞ!」と宣言します。ガラシャが無断でキリスト教に改宗したことへの怒りだったのかどうかはわかりません。
もちろん、戦国武将なら側室がいるのは当たり前のことなのですが、わざわざガラシャに言ってのけるあたりが、非情な感じがしますよね。今でいえばモラハラの匂いもします。
夫の発言に困惑し、傷ついたガラシャは、本気で離婚を考えました。宣教師に相談するほどでしたが、諭されて思い止まっています。
3-2. なぜそこまで忠興は辛く当たったのか
しかし、なぜ忠興はガラシャにそこまで辛く当たったのでしょうか。
歪んだ形ではありましたが、忠興は彼女を愛していました。そのため、彼女がキリスト教という別のよりどころを得て、関心が夫の自分ではなく、キリスト教に向いていくことに動揺したのかもしれません。キリスト教に改宗したことで別人のようになったという彼女ですから、そのことにも大きなショックを受けたのではないかと推測できます。そして、もう一度自分の方を見て欲しいという思いが、ねじれた形で表れてしまったのではないでしょうか。
3-3. 夫の過激な命令「何かあれば死ね」
こんな中でも、時代は確実に動いていました。秀吉が亡くなると、徳川家康が徐々に動き出したのです。そして慶長5(1600)年、家康が会津の上杉景勝に対して討伐軍を組織すると、多くの戦国大名がそれに従い、大坂を離れることになりました。
この面々には忠興も含まれており、彼は留守に際してこう言い置いたのです。
「自分がいないときに妻の名誉が汚されるようなことがあれば、妻を殺し、全員切腹せよ」と。
かなり過激な命令ですよね。ただ、これは忠興が出陣する際にはいつも言っていたらしいのです。とはいえ、まさか本当にそんな事態が起こるとは、さすがに忠興も予期していなかったかもしれません。