これだけは知っておきたい!日本の歴史のターニングポイント
神話の時代~平安時代の間のターニングポイント
『日本書紀』や『古事記』に記されている時代。まだ文字による記録は少なく、詳しいことがわからない出来事も多いのですが、日本という国が成立した大切な時代。数々の転換期があったはず。その中から日本の行く末を大きく左右した出来事3つを挙げて簡単に解説します。
天皇を中心とした国へ~大化の改新
大化の改新とは、645年(大化1年)から数年間の間に行われた政治改革のこと。中心人物となったのは、後に天智天皇となる若きカリスマ・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、中央の役人であり後に藤原氏の祖となる中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。
時は飛鳥時代。聖徳太子の死後、豪族として権勢を振るっていた蘇我氏がさらに威張り散らすようになります。天皇をも恐れぬ横暴ぶりに業を煮やした中臣鎌足は、中大兄皇子とともに蘇我氏の当主である蘇我入鹿を暗殺(645年・乙巳の変・いっしのへん)。蘇我一族を中央から退けたのです。
この後から、本格的な改新が始まります。
まず、日本の歴史上はじめて「年号」というものを設けました。最初の年号は「大化(たいか)」です。
次に私有地の所有を禁じ、全ての土地は天皇のものであると定めます。その上で、農地を農民たちに無料で貸し出し、税(年貢)を徴収する制度を定めました。国に納める税を「租庸調制(そようちょう)」と呼ばれ、祖(米)、庸(労働力)、調(その他の品々)とし、国郡里制(こくぐんりせい)という制度を設けて役人を各地に配置して管理。この制度改革により、天皇を中心とした国づくりの形が出来上がってきました。
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倭国から日本国へ~白村江の戦い
白村江(はくそんこう・はくすきのえ)とは、朝鮮半島の南西部にある川(現在の名称は錦江)。663年、ここで、日本(倭国)・百済の連合軍と唐・新羅の連合軍による戦いが行われました。
6世紀から7世紀の朝鮮半島では、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ・しんら)、百済(くだら)の3国がけん制しあう時代が続いていました。その構図に変化が現れたのが660年。唐が新羅と手を結び、百済を攻め滅ぼしたのです。
大化の改新を成功させ、勢いに乗る中大兄皇子は、唐が朝鮮半島で影響力を持つことに脅威を感じました。そこで、百済へのべ4万とも5万とも伝わる大軍を送り込みます。
しかし、日本軍は唐・新羅連合軍の前に、わずか2日足らずで殲滅。この後すぐに、唐・新羅は高句麗を滅ぼし、新羅が朝鮮半島を制圧。これを聞いて慌てたのは中大兄皇子です。唐が怒って日本に攻め込んでくるかもしれません。
中大兄皇子は大急ぎで現在の福岡県に大宰府を設置し、水城と呼ばれる防衛壁を築くなど対策に乗り出します。ただ、結局このときは、唐が攻めてくることはありませんでした。
このことから「外国から身を守る必要性、危機感」を再認識することに。後世の日本の歴史に大きな影響を与えたのです。
もう要らないっしょ~遣唐使の廃止
遣唐使(けんとうし)とは、7~9世紀にかけて、日本が唐に派遣した使節のことです。
当時の唐は、一つ前の王朝である隋と同様、最新の技術や学問を学ぶことができる先進国でした。日本からは遣隋使の時代も含めて20回以上、多くの若者が大陸へ渡ります。有意義ではありましたが、当時はまだ、風任せの船で航海は命がけでした。
しかしそれでも遣唐使は、学問や芸術、文化、政治制度のあり方など、多くの英知を日本にもたらし、仏経の伝播にも大きく貢献しました。
そんな中、894年に、朝廷の役人であり次の遣唐大使に任命されていた菅原道真が「遣唐使の廃止」を宣言。およそ250年続いた遣唐使・遣隋使の歴史は幕を下ろします。
廃止の理由は「唐では内乱が続いていて国力が衰えてきている」「遣唐使の旅はそもそも危険」の2つ。菅原道真は、いろいろ天秤にかけると危険な航海をしてまで出かける価値は薄れてきている、と判断したと考えられています。しかし、実際には、道真の提案が廃止につながったのかどうか、はっきりとしたことはわかっていません。
遣唐使の廃止により、緩やかではありますが徐々に日本独自の独立した文化(国風文化)が花開いていきます。しかし、公式な留学や交易は廃止になりましたが、一部のお金持ちや権力者たちによる個人的な交易は続いていました。
武士の時代の始まりにまつわるターニングポイント
日本の歴史の転換期を語るうえで避けて通れないのが武士の時代の幕開けです。古代と中世の境目とも言われる武家社会の始まり。それはじっくりと長い時間をかけて、様々な出来事の積み重ねによるものでした。武士の時代への分岐点となる出来事はいくつかあると言われていますが、今回は以下の3つについてお届けいたします。
武士の時代の幕開け~鎌倉幕府の成立
武士とは主に「護衛」や「傭兵」を専門としたジャンルの人たちが起源。貴族たちに仕えて護衛をしたり、地方の農地を守ったり、農民たちを管理したり……。貴族たちがのんびり遊んでいる間に、武士たちが地方でメキメキと力を付け始めたのです。
平安時代後期、朝廷では皇位継承争いが激化。幼い天皇を裏で糸轢く「院政」なる政治が横行します。そしてついに1156年、崇徳上皇と後白河天皇の争いを機に、武士たちが台頭するきっかけとなった「保元の乱」「平治の乱」が勃発。このとき活躍したのが、平清盛と源頼朝です。
はじめは源氏も平家も後白河天皇の側について戦っていました。しかし保元の乱のときに源氏は平清盛に敗れ、源頼朝は伊豆へ。平家は都で権勢をふるいます。
しかし平家の世も長くは続きません。1180年、頼朝が伊豆で挙兵し、1185年に平家を打ち滅ぼします。そして1192年に征夷大将軍に。鎌倉に幕府を開き、ここから武士の世が始まるのです。
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