- 1.落城後、奴隷として売られていく捕虜たち【志賀城の戦い】
- 1-1.志賀城攻めと上杉の援軍
- 1-2.頼みの上杉軍が惨敗
- 1-3.志賀城陥落!捕虜は人身売買に
- 2.数万人の男女が丸焼けに!【伊勢長島攻め】
- 2-1.織田軍を二度までも撃退した長島一向一揆
- 2-2.数万人を焼き殺し、だまし討ちにする何でもアリの戦法
- 3.女子供であっても容赦なき皆殺しの戦術【越前一向一揆】
- 3-1.越前の混乱と一向一揆の台頭
- 3-2.一揆衆の壊滅
- 4.徹底した宗教勢力の弾圧【比叡山焼き討ち】
- 4-1.信長の標的となった延暦寺
- 4-2.高僧、学僧、子供らを躊躇なく虐殺
- 5.ウイルスのクラスターが発生した籠城戦【七尾城の戦い】
- 5-1.能登を安定させるべく出陣した上杉謙信
- 5-2.七尾城でクラスターが発生!
- 6.悲惨な籠城戦、三木の干し殺し【三木合戦】
- 6-1.籠城戦始まる
- 6-2.孤立する三木城
- 7.悲惨な籠城戦、鳥取の渇え殺し【鳥取城攻防戦】
- 7-1.吉川経家、鳥取へ入城する
- 7-2.秀吉に完全に包囲された鳥取城
- 7-3.人肉さえ食らいあう修羅場に…
- 8.悲惨な籠城戦を描いた「おあむ物語」【大垣城の戦い】
- 8-1.関ヶ原の戦い当日
この記事の目次
1.落城後、奴隷として売られていく捕虜たち【志賀城の戦い】
父親を追放して、武田氏の家督を継いだ若き武田晴信(のちの信玄)。戦いに勝って家臣たちの信頼を得ようと必死な頃がありました。信濃国佐久地方(現在の長野県佐久市付近)には、まだ服従しない勢力がおり、晴信はそういった敵を根絶やしにする必要があったのです。
1-1.志賀城攻めと上杉の援軍
武田氏に服従しない勢力とは、志賀城を居城にしていた笠原清繁。約300の兵をもって籠城します。対して攻める武田軍は5千もの大軍。普通なら赤子の手をひねるかのように城は落ちるでしょう。しかし清繁にはたしかな勝算がありました。それは関東を牛耳っていた上杉氏の存在でした。
ここでいう上杉氏とは、謙信を輩出した越後の戦国大名ではなく、当時、関東で大きな勢力を持っていた関東管領家のことです。志賀城は関東管領上杉氏の勢力圏にも近く、しかも清繁の親戚は上杉氏の家臣でもありました。
援軍要請を受けた上杉氏の当主憲政は、さっそく大軍を差し向けます。
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1-2.頼みの上杉軍が惨敗
来援の上杉軍は数万の兵を擁し、志賀錠を救うため粛々と佐久へ向かいます。これだけの大軍ですから万に一つ負けることはないと考えたことでしょう。
しかし悲しいかな、上杉軍は各地から集められてきた寄せ集めの軍でした。総大将を決める時もくじ引きで決定したそうです。
いっぽう上杉軍の来援を察知した晴信は、別動隊を差し向けます。志賀城近くの小田井原という場所で両者は激突したのですが、上杉軍は統一された作戦が取れない上に士気も低く、武田軍に簡単に撃破されてしまいました。
1-3.志賀城陥落!捕虜は人身売買に
小田井原の戦いで討ち死にした上杉方の将兵は約3千。すべての首を戦場から持ち去った武田軍は、その大量の首を、なんと志賀城の目の前に掛け並べ始めたのです。朝もやの中でその凄惨な光景を見た城兵は仰天!一気に城兵の士気が下がってしましました。ここで武田軍は一斉に総攻めを仕掛け、志賀城は落城。城兵はほぼ全滅しました。
しかもなんとか生き残った兵や、籠城していた将兵たちの家族を残らず捕らえ、奴隷にするか人身売買によって売り飛ばしてしまいました。あまりに高値で売られたために、身元を引き取ろうとした親族でさえ手が出せなかったそうです。
武田に対して逆らわないよう、わざとその恐ろしさが伝わるように仕向けた。という説があります。いずれにしても落城後に過酷な処置を行うことは、当時の常套手段だったのですね。
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2.数万人の男女が丸焼けに!【伊勢長島攻め】
立花左近 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
伊勢(現在の三重県)北部の長島というところに、願証寺という一向宗の寺がありました。戦国の頃、天下統一を進める織田信長に抵抗して一向一揆を起こし、抵抗を繰り広げました。しかし酸鼻を極める悲惨な結果となったのです。
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2-1.織田軍を二度までも撃退した長島一向一揆
伊勢北部といえば、信長の領国があった尾張に程近い場所です。ここで反乱の芽が出たということは信長も捨ててはおけません。
1571年、信長は5万の兵を率いて来襲。各地に火を放って気勢を上げますが、隙を突いた一揆軍の伏兵によって思わぬ被害を受け、撤退を余儀なくされました。
そして2年後、再び伊勢へ侵攻して一定の戦果を収めますが、今度もまた一揆軍の反撃に遭います。運悪く荒天のため鉄砲が使えず白兵戦となりますが、圧倒的多数の一揆軍は数を恃んで平押ししてきました。
織田方は幾人かの武将が討ち取られ、退散してしまったといいます。
2-2.数万人を焼き殺し、だまし討ちにする何でもアリの戦法
一向一揆のあまりの抵抗ぶりに、さしもの信長も焦り立ちました。「今度こそ根絶やしにしてくれよう!」と。すると翌年6月、陸からは大軍、海から大安宅船を擁して一揆軍の拠点を完全に包囲したのです。
一揆軍は今までにない織田軍の意気込みに恐怖します。瞬く間に周辺の城や砦は潰され、多くの一揆衆が5つの城へ逃げ込んできました。大鳥居城と篠橋城に籠っていた人たちは、夜中逃げ出そうとしたところを虐殺され、長島城では兵糧攻めで多くの餓死者が発生します。
長島城は耐えきれずに降伏して開城しますが、「降伏を認める」とだました上で、出てきた人々を皆殺しにしてしまいました。
圧巻は屋島城、中江城に籠った男女や子供への仕打ちでした。柵で囲って逃げられないようにしてから、一斉に火を放ったのです。城内はまさしく阿鼻叫喚の地獄絵図に。焼け死んだ人は2万とも数万ともされていて、伊勢一向一揆は根絶やしにされてしまいました。
3.女子供であっても容赦なき皆殺しの戦術【越前一向一揆】
伊勢一向一揆を打ち破った織田信長。しかし彼にとっては、信仰によって団結する民衆そのものが真の敵だったのです。彼らを屈服させるには、戦争に勝つだけでは到底終わらない。完全に根絶やしにする以外に方法がなかったと考えていたのでしょう。
3-1.越前の混乱と一向一揆の台頭
1573年、越前国(現在の福井県)の戦国大名朝倉氏が織田信長によって滅ぼされると、織田に味方した朝倉氏の旧臣たちが領土を安堵されて支配していました。
しかし、信長配下の武将が越前にやってきて統治するわけでもなく、朝倉旧臣のみでの支配という形であり、前波吉継や富田長繁といった有力者たちが勝手に主導権争いを始めたのです。その混乱に乗じて勢力を伸ばしたのが、一向一揆でした。
一向一揆とは、一向宗(現在の浄土真宗)を本願とし、信仰の力をもって民衆を束ねて組織化するという武装集団ともいえる存在でした。信長が苦戦していたのも、まさに一向宗の武力だったのです。
越前の一向一揆衆は、隣国加賀(現在の石川県)から指導者を呼んで強力な組織を作り上げ、武力をもって越前から朝倉旧臣たちを叩き出しました。
しかし、そんな状況を手をこまねいて見ている信長ではありません。