室町時代戦国時代日本の歴史

千利休はどんな人?天下人に仕え茶聖と称された男の生涯をわかりやすく解説

戦国時代の武将たちの多くは乱世を生き抜くため、心の癒しと休息を求めて茶の湯を好んだといいます。癒しの他にも、教養を身につけたいという意図もあったとか。武力である程度の地位を築いた後は、貴族や朝廷たちと対等に渡り歩くために格式が必要になりそういう意味でも日頃からお茶をたしなみ、茶の道に精通した茶人や知識人たちと交流していたと考えられています。今回の記事では「茶聖」と称されながら非業の死を遂げた、千利休の波乱の人生を追いかけてみたいと思います。

戦国時代を生きた茶聖・千利休と茶の湯と天下人

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千利休が生きた時代は、足利幕府がすっかり力を失って没落。代わりに地方の名もない御家人たちが腕っぷし一本でのし上がり、強いものが世の中を制するのだと、世の中の価値観が大きく変わる転換期でもありました。「茶道」を通して戦国武将たちに重用された茶道界のカリスマ・千利休。貴族や武将ではないので幼少の頃の資料は少ないですが、残されている記録や逸話から、その半生をたどってみることにいたしましょう。

生まれは商人の家・若くして茶の湯の道へ

千利休(せんのりきゅう)は1522年、大坂・堺の生まれ。聞きなれた「千利休」は実は本名ではなく、子供のころの幼名は田中与四郎(與四郎とも)といいます。

生家は大きな商家で裕福。父親は手広く商売をしていたと伝わっています。

戦国時代、堺は西洋から物資が運び込まれる国際貿易都市であり、学問や文化芸術の発信地でもありました。

そんな中、利休は跡取りとしての品格や教養を身につけるため、16歳のときにお茶を習い始めます。

そして18歳のときに、同じく堺の豪商にして著名な茶人・武野紹鴎(たけのじょうおう)の門下生になるのです。武野紹鴎は「わび茶」の祖といわれる村田 珠光(むらたじゅこう)の教えを師事しており、やみくもに高価な茶器を用いるのではなく、普段使っている簡素な器で満たされた時を過ごす「侘び」の精神を追及していました。

利休という名前はずいぶん後になって付けられたもので、当時の名前は「千宗易(そうえき)」。 「千」は「先」から来ているとの説もあるそうです。

(若いころは「利休」とは名乗っていませんが、この記事では統一して「利休」と記しています)

若いころの利休は、商売より茶の道に夢中になっていました。23歳のときに、商人で茶人の松屋久政などを招いて茶会を開いています。

天下布武の真っただ中!織田信長との出会い

1568年、利休46歳の頃、にぎわう堺の町に目を付けた戦国武将がいました。織田信長です。

それまで、独立国家のように自由に商売を行っていた堺の商人たち。そこに信長がやってきて自分の配下に入ってお金や鉄砲をよこせと乱暴なことを言ってきます。堺の商人たちは若干抵抗しましたが、天下布武を掲げ勢いに乗る信長には逆らえません。堺はいつしか、信長の配下に置かれることとなります。

織田信長は早くから、茶の湯に目をつけていました。

天下を狙うには武力だけでなく、人々の心を惹きつけるものも必要だと考えていたのでしょう。自身がお茶を楽しむだけでなく、味方につけたい人物を特別な茶の席に招待したり、高価な茶器を送ったりと、お茶の人気を最大限に利用していました。

あるとき千利休は、同じく堺の茶人であり豪商でもあった今井宗久、津田宗及とともに、茶人として仕えることになります。この頃、信長の許しがないと勝手に茶会を開くこともできなくなっていたので、彼らは彼らで、信長との良好な関係は有益です。

この時代、信長に逆らうのは得策ではありません。怒らせては命の保証もない。利休がどう思って信長の側にいたか心の内はわかりませんが、次第に信長から信頼され、茶人としても一目置かれるようになっていきます。

1582年、信長は安土から京都の本能寺へ。このとき信長は、豪華な茶器類をたくさん運び込んでいます。有名人を招待し、本能寺で茶会を開くつもりだったのです。

そんな時、あの大事件が起きます。誰もが寝静まった本能寺に明智光秀の軍勢が突如襲撃。信長は志半ばにして非業の死を遂げます。天正10年6月2日(1582年6月21日)未明のことでした。

関白・秀吉との出会い~「利休」はここから

本能寺の変の後、千利休は織田信長の後継となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えることになります。

一介の農民から天下人にまでのし上がった秀吉は、信長以上にどん欲に、茶の湯を政治や接待に利用しようと考えていました。

秀吉の機嫌を取ろうと茶の湯を始める武将も増加。利休に弟子入りを望む者も少なくなかったようです。

1585年(天正13年)、秀吉がお茶会を開きます。関白就任の返礼として正親町天皇(おおぎまちてんのう)にお茶をたてるという「禁中献茶」。この場を取り仕切ったのももちろん利休です。

しかし!ここで少々問題発生。利休は将軍でも大納言でも朝廷の役人でもなく、一般の町民です。平民を御所に上げることなど前例がありません。そのため、このとき天皇から居士(こじ:出家せず家で修行する仏教徒を表す言葉)を与えられたと伝わっています。その居士が「利休」なのです。

このことで、利休は一層有名人になり、その名前は全国に知れ渡ることになります。

黄金の茶室で知られる秀吉、上質な茶道具を好み、全国から名品を取り寄せる一方で、新規に茶器を作らせてもいました。新しく作り出された茶器の鑑定も利休の仕事。侘びの世界を感じさせる素朴で温かみのある茶器が次々と作られていきます。

信長から秀吉の時代に代わっても、利休は茶の湯の道を究め、時の権力者たちに仕えていきました。

利休切腹!世間を震撼させた事件の経緯とその後

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お茶の腕前ひとつで天下人と近しくなり、確固たる地位を築き上げた千利休。しかし栄光の日々はそう長くは続きませんでした。ある時から、豊臣秀吉と険悪なムードになり、わけもわからないうちに突然切腹を言い渡されてしまうのです。本能寺の変と並んで、戦国時代のミステリーとして語られることの多い利休の切腹。いったい何があったのでしょうか。

切腹・屋敷取壊・晒し首……利休が何をした?

1587年、九州平定を成し遂げ、事実上天下統一を果たした豊臣秀吉。そのことを改めて世に広めるため、北野天満宮で「北野大茶湯」という催しを開催します。

この頃までは、秀吉と利休の関係は良好でした。

しかしある時から、秀吉は突然、利休を遠ざけてしまいます。何か大きな事件が起きたわけでもなく、何が一番の原因なのかいろいろ説があるようですが……。いったい何がきっかけだったのでしょうか。

1591年(天正19年)、利休は堺に蟄居を言い渡されます。

そしてなんと、切腹を言い渡されてしまうのです。

ええっ?なぜ突然?この間まであんなに仲良かったのに!?もうびっくり!

周囲の驚きは相当なものだったと思われます。

徳川家康や前田利家が事態を収拾しようと奔走したといわれていますが、誰が何を言おうが秀吉の心は変わりません。

結局、利休は自宅で切腹。青天霹靂だったのか、それともある程度覚悟があたのか……。

利休切腹で終息したかと思いきや、単なる切腹では終わらず、利休の首は秀吉の命で、一条戻橋に晒されてしまいます。

一条戻橋といえば、安倍晴明が式神を置いていたあの橋、平安京の北の端。平安時代には、この橋の向こうは異界と考えられていた場所。

そんな場所に晒すとは……この上なく屈辱的な処刑方法です。

さらに、利休の死後、利休の屋敷は秀吉の命によって取り壊され、利休の弟子たちの中にも蟄居を申し付けられた者がいたと伝わっています。

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