幕末日本の歴史江戸時代

幕府と藩の関係が覆ったきっかけ「第二次長州征伐」をわかりやすく解説!

日本にはいくつかの逆転劇があり、そこから大きく歴史が変わったということは沢山あります。日本史の場合だったら桶狭間の戦い、世界史の場合だったらスターリングラード攻防戦などがこれに当てはまりますね。その中でも幕末の時代なんてのはそんな転換点の連続でした。 今回はそんな歴史の転換点となった第二次長州征伐について解説していきたいと思います。

第二次長州征伐が起こるまでのいきさつ

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長州征伐は江戸時代で初めて藩を討伐した出来事でした。江戸幕府が初めて討伐を行うほどの出来事をどうして長州藩が行ったのでしょう。まずはそんな長州藩が幕府によって攻められるまでの歴史を見ていきたいと思います。

八月十八日の政変による京都追放

1853年に浦賀にペリーが来航したことで日本では尊王攘夷の思想が広まっていくことになります。

この当時日本では日米修好通商条約によって日本の産業に大打撃を受けており、その結果外国を打ち払おうとする攘夷運動が活発になっていき、さらには外国と条約を結んだ軟弱な幕府ではなく天皇による国づくりを行おうという声が広まっていきました。その頃特に尊王攘夷が強かったのが長州藩。

尊王攘夷は水戸藩などで広まっていましたが、真剣に尊王攘夷を実行しようと考えていたのは長州藩ぐらいだったのです。長州藩はなんとかして外国を追い払って天皇中心の国造りをするためにまずは攘夷を行うことに。幕府に許可をもらって攘夷を決行することになりました。しかし、この攘夷運動はみんな消極的。まともに尊王攘夷を行おうとしていたのは長州藩ぐらいということもあって攘夷の決行も長州藩のみでやることになりました。

その結果長州藩では下関戦争が勃発。あっさりと負けてしまうことになり、幕府は非常に迷惑を被られてしまいました。さらには長州藩は幕府を倒して天皇中心の国造りをするために孝明天皇を長州藩に拉致してそこで討幕しようと考えていたのです。しかし、この計画に薩摩藩や会津藩などが察知。この二藩は長州藩を追い出すクーデターを起こして八月十八日の政変で長州藩は完全に追放されることになります。

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