3-4. 人質要請をきっぱりと拒否
そして忠興は出立していきましたが、まもなく、とんでもない事態が起きてしまいました。
家康らの出陣を見計らい、石田三成が挙兵したのです。これが、関ヶ原の戦いの始まりでした。
三成はまず、大坂の屋敷にいる各大名の妻子を人質に取る作戦を決行します。
その最初のターゲットとなったのが、細川屋敷だったのでした。
はじめのうちは、三成はガラシャに対し、人質になることを丁重に申し入れます。しかし、再三の要請に対し、ガラシャはきっぱりとこれを断りました。
「三斎様(忠興のこと)のためにも、人質になることは絶対にできません」
自分が人質になれば、今頃関東にいるはずの夫に迷惑がかかる…夫婦仲は冷え切っているはずでしたが、ガラシャはまず夫の立場を考えていたのです。
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3-5. 自ら死を選ぶ
要求を拒否された三成は、やむを得ず兵を派遣し、細川屋敷を取り囲ませました。実力行使をちらつかせれば、ガラシャも出てくるだろうと踏んだのでしょう。使者は「拒否なさるなら、今度は力づくでお連れします」と強気に出てきました。
彼女はそこで、「では、支度をいたしますので少々お待ちを」と言い、屋敷の中に入っていきました。そして、家老たちと話し合い、こう言いました。
「自分が大坂城に入り人質となれば、徳川方についた夫は心変わりするかもしれません。そうすれば、夫が裏切り者の汚名を着ることになります。それだけは絶対に避けねばなりません」
また、彼女と家臣たちの胸には、忠興の言いつけがしっかりと刻まれていました。
人質になり、細川家の名誉を汚すくらいならばいっそ…。
そして、ガラシャは侍女たちを逃がし、「私の最期を伝えてほしい」と頼みました。それから、家老・小笠原秀清(おがさわらひできよ)に、自分を殺して屋敷に火をかけるように命じました。キリスト教では自殺が禁じられていましたから、そうするしかなかったのです。
そして、秀清の介錯によって彼女は最期を遂げたのでした。
家臣たちも切腹し、やがて細川屋敷は炎に包まれ、すべてが灰となったのです。
3-6. 忠興の怒りと悲しみ
ガラシャが人質となることを拒否して死を選んだというショッキングな事件に、世間は騒然となりました。あまりのことに、以後、妻子を人質に取るという手段はなくなったとも言われているほどです。
妻の衝撃的な死を知らされた忠興は、深く悲しみ、そして怒り狂いました。
嫡男・忠隆(ただたか)の正室・千世(ちよ)は、ガラシャと共に屋敷にいたものの、火を放つ直前、宇喜多秀家(うきたひでいえ)の妻となっていた姉・豪姫(ごうひめ)の手引きにより、逃げ出していたのです。そんな彼女に対し、忠興は「ガラシャを見捨てた」として忠隆に離縁を命じたのですが、彼がこれを拒否すると、怒りのあまりに廃嫡し、勘当してしまいます。また、同様に逃亡した家臣・稲富祐直(いなとみすけなお)のことも、「火あぶりにしてやる」と激怒し、執拗に追跡しました。しかし、稲富は有能な砲術家だったために、徳川家康が惜しんで保護したため、手を出すことはできませんでした。
やがて、忠興はガラシャを教会葬で送り出しました。あれほどキリスト教改宗に立腹していたのにもかかわらず、彼は葬儀にも参列したのです。
愛情表現がだいぶ歪んではいましたが、やはり、彼はガラシャを愛していたことがわかりますよね。
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3-6. ガラシャの死が細川家に及ぼした影響
ガラシャの死により、2人の長男・忠隆が結果的に廃嫡されてしまうこととなりましたが、彼女の死は他にも細川家に少なからず影響を与えました。
忠隆の廃嫡により、忠興の跡継ぎは三男の忠利(ただとし)となりました。しかし、二男の興秋(おきあき)は当然これに不満を持ちます。興秋はかつて忠興の弟・興元(おきもと)の養子となっていたこともありますし、忠利は早くから江戸に人質として送られ、江戸幕府とのパイプを築いていたので、この跡継ぎ決定は仕方ない面もあるのですが。
そして、興秋は、自分が忠利と入れ替わりで江戸へ行くことが決まると、その途中で出奔し、大坂の陣ではあろうことか豊臣方として参戦してしまいます。敗軍の将となった彼を待っていたのは、父・忠興の厳しい仕打ちでした。忠興は興秋の助命を許さず、切腹を申し付けたのです。
ガラシャが生きていたら、このようなことはなかったのでしょうか。
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これまでにない夫婦像
ガラシャの一生を見てくると、彼女に安らぐ日々はあったのかとも疑問に思う瞬間があります。忠興が何だかんだと彼女を愛していたことは彼女の死後にわかりましたが、反対に、彼女の忠興への思いはいったいどんなものだったのか、いろいろと考えさせられますよね。しかし、夫と家のために死を選んだ彼女の姿は、他の誰よりも凛として誇り高かったと思います。
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