銀行家としての井上準之助
大分県の日田に生まれた井上準之助は、立身出世を夢見て故郷を出ました。二高、東大と学歴を積んだ井上は日本銀行に就職します。日本銀行では名財政家である高橋是清の知遇を得ました。その後、パートナーとなる浜口雄幸と出会い、順風満帆に思われましたが、日本銀行内で上司と衝突。閑職に左遷されました。その後、日本銀行に復帰し総裁に就任。高橋是清と共に金融危機に対処します。
異例の出世と左遷
1869年、井上準之助は大分県の日田郡大鶴村に生まれました。井上の生家は造り酒屋を営んでいましたが、7番目の子供である井上に家督相続の可能性は余りありません。子供のころから勝気な性格だったと言われる井上。中央で一旗あげようと考え、日田を飛び出しました。
まず、出世のために学問が必要だと考えた井上は仙台にあった旧制第二高等学校(現在の東北大学)に入学します。旧制第二高等学校の法科を首席で卒業した井上は、東京帝国大学の法科に入学しました。東大卒業後、井上は日本銀行に入行します。
日本銀行入行後、井上は31歳で日銀の検査役、36歳で大阪支店長と次々と要職に就任しました。38歳の時、井上は日銀でも主要ポストの一つである営業局長になります。しかし、井上は日本銀行第6代総裁の松尾臣善と衝突。閑職に左遷されてしまいました。
後にパートナーとなる浜口雄幸との出会い
松尾が日本総裁を辞した1911年6月、新総裁に高橋是清が就任します。これを機に、ニューヨークに左遷されていた井上は横浜正金銀行の副頭取に任じられ、日本に帰国しました。横浜正金銀行は、一般の銀行とは異なり貿易金融や外国為替に特化した銀行です。ここで、ニューヨークに派遣され時の勉強や海外勤務の経験を存分に発揮した井上は、再び日本銀行内で出世の階段を駆け上りました。
このころ、大蔵省の事務方トップである大蔵次官となっていたのが浜口雄幸です。浜口は帝国大学卒業後、大蔵省に入省。専売局長官や逓信次官などをつとめ、大蔵次官となっていました。
日本経済の要職にある二人は、しばしば会議などの場で顔を合わせ、互いを知ることになります。
日銀総裁となり、金融恐慌に対応
1913年、井上は横浜正金銀行の頭取となります。このポストを経験すると、日銀総裁への道が開けるというほどの要職でした。国際金融畑を歩んできた井上にとって、横浜正金銀行頭取は、まさに適職だったでしょう。
1919年、これまでの経歴を評価された井上はついに日本銀行総裁に就任します。その後、井上は第二次山本権兵衛内閣で大蔵大臣も務めました。第二次山本権兵衛内閣は関東大震災からの復興という重要な使命を持ちます。井上は大蔵大臣としてモラトリアムを発布し、支払いに苦しむ企業を救済しようとしました。
関東大震災から4年後の1927年、関東大震災の時にできた震災手形の支払いが滞ったことなどから金融恐慌が発生します。このとき、井上は2度目の日銀総裁となっていました。井上は大蔵大臣高橋是清と共に金融恐慌の混乱収拾にあたり、沈静化に成功しました。
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金解禁と緊縮財政を実施した井上財政
震災恐慌や金融恐慌を乗り切った井上は、高橋是清と並んで財政の第一人者とみられるようになりました。1929年、民政党の浜口雄幸が組閣すると、井上は浜口に請われて大蔵大臣となります。井上は金解禁と緊縮財政を基本とする井上財政を展開しました。しかし、世界恐慌のためにおきた昭和恐慌や、井上財政に反対する反緊縮財政派や軍と対立してしまいます。
浜口内閣の大蔵大臣として入閣
1929年7月、政友会の田中義一内閣は張作霖爆殺事件(満州某重大事件)について昭和天皇から叱責を被ったことなどが理由で総辞職します。
大正時代から昭和の初期は二大政党が交互に政権を担当する「憲政の常道」が行われていた時代でした。田中が張作霖爆殺事件の責任をとって辞任したとなると、次に組閣するのは二大政党のもう一つである民政党です。
組閣の大命(天皇による首相任命と組閣指示)を受けた民政党の浜口雄幸は、政治的空白は許されないと考え、わずか一日で組閣作業を完成させました。浜口は要職である外務大臣に国際協調派の幣原喜重郎を、大蔵大臣に井上準之助を起用します。
「ライオン宰相」の異名を持つ浜口は、一歩も引かぬ覚悟で対欧米国際協調と緊縮財政の二本柱で政権を運営しました。
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