- 朝鮮出兵はこれまで3回おこなわれている
- 日本国としてではない朝鮮侵略もあった可能性
- 明治時代の朝鮮出兵の機会は江華島事件から始まった
- 江華島事件とその結果
- 江華島事件以降の朝鮮王朝の混乱
- 朝鮮王朝内の混乱とそれに付け入った日本と清の対立
- 日本の最初の朝鮮出兵と介入回避へ
- 日本と清の軍隊は一時的撤退
- 甲午農民戦争による本格的な朝鮮出兵と日清戦争の勃発
- 日本の初めての海外戦争である日清戦争の勃発
- 日清戦争による日本の近代化の進展
- 日本の台頭に警戒するロシアの三国同盟による介入
- 朝鮮半島にロシアも介入し始め、日本国内には対露強固論の台頭
- 日露戦争によって日本は朝鮮半島支配へ
- 日露戦争はポーツマス条約で終結
- 日露戦争に勝利した日本は朝鮮半島に軍隊を派遣し支配を順次強める
- 朝鮮半島を植民地とした日本の支配
- 日露戦争で賠償金の取れなかった日本は朝鮮半島での搾取に走る
- 日本軍と総督府の搾取は三・一事件まで続いた
- 他国への侵略出兵行為に大義名分はない
- 反省すべき朝鮮出兵を忘れて隣国との未来はない
この記事の目次
朝鮮出兵はこれまで3回おこなわれている
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日本は、国としてはこれまで朝鮮半島に3度軍隊を派遣しています。そのうち、663年におこなわれた白村江の戦いは新羅、唐の連合軍の前に軍船が全滅するという敗北に終わりました。また、16世紀末におこなわれた豊臣秀吉の2度にわたる朝鮮出兵も、中国の明と朝鮮王朝の連合軍の前に敗北に終わっています。
そして明治時代には、1880年代からたびたび朝鮮半島に出兵し、最終的に植民地にしてしまいました。その恨みは今も朝鮮の人々に残っています。
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日本国としてではない朝鮮侵略もあった可能性
また、7世紀以前にも、朝鮮の後代の史書では、朝鮮半島の各地に倭寇と言われる侵略行為がおこなわれているのです。明治時代に発見された広開土王碑の碑文には、倭寇と戦ったことが記載されています。しかし、日本の国書である日本書紀などにはそれらのことは記載されていません。実際に、6世紀初期まではまだ大和朝廷も日本列島全体を支配していたわけではなく、日本として出兵できる力もなかったのです。
ただ、日本書紀には朝鮮半島の南部には任那日本府があったと記載されており、倭族が朝鮮半島南部に住んでいた可能性はあります。そして、その彼ら倭族が倭寇として侵略行為をおこなっていた可能性は考えられるのです。
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明治時代の朝鮮出兵の機会は江華島事件から始まった
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明治時代初期には、既に日本政府による朝鮮出兵の動きがありました。公卿の岩倉具視や参議(今の大臣)の大久保利通らが西欧使節団として渡欧している間に事件が起こったのです。留守を預かっていた西郷隆盛や江藤新平らの参議が朝鮮王朝から挨拶(江戸時代におこなわれた朝鮮通信使)がないことを理由に、鎖国していた朝鮮に出兵しようとしました。しかし、この動きは帰国した大久保利通らによって阻止され、実現していません。その結果、西郷隆盛や江藤新平らは明治政府を辞め(明六の変)、国内で反乱を起こすようになったのです。最後の反乱となった西郷隆盛の西南の役と同年に再び事件が起こります。それが江華島事件でした。
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江華島事件とその結果
1875年9月に日本の海軍艦船が朝鮮の江華島付近を訓練のために航行していた時に、朝鮮軍から砲撃を受け、日本の艦船は直ちに反撃の砲撃をおこない、朝鮮軍を壊滅させました。江華島は、朝鮮の首都である漢城(今のソウル)のある漢江の河口にあったのです。これが江華島事件と言われています。日本政府は、直ちに朝鮮王朝に対して、鎖国を止め、国交を結ぶように要求しました。
日本軍の攻撃によって都に近いところで朝鮮軍が壊滅したことに驚いた朝鮮王朝は、弱腰になり、日本と日朝修好条規を結ばされます。その20年前に、日本がアメリカと日米修好通商条約という不平等条約を結んだのと同様に、日本政府は不平等条約を朝鮮王朝に強要したのです。
同時に朝鮮王朝の弱体化も明らかになり、日本政府の中に朝鮮半島への野心が生まれたとも言えます。その背景には、中国の清がアヘン戦争に負けて以来弱体化していることもあったのです。
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