西南戦争の背景
幕末、討幕派の志士たちは幕府を倒すことで新しい時代が開け状況が改善すると考えていました。しかし現実はそう甘くはありません。戊辰戦争後、明治政府は困難な状況を打開するため中央集権化を進めました。その結果、武士たちのよりどころである藩や武士が持っていた特権を次々と廃止する政策を実行に移します。状況が改善どころか改悪されたと感じた西南諸藩の武士たちは各地で反乱を起こしました。
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明治政府の成立と廃藩置県
1868年の鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争は翌年、明治政府の勝利によって幕を閉じました。明治政府は東京遷都を実施。新しい時代が来たことを人々に印象付けました。
明治政府は中央集権国家をめざします。そのために全国各地に残っていた藩を廃止しようとしていました。1869年、諸藩主が土地と人民の支配権を天皇に返上する版籍奉還を実施。この時は旧藩主を知藩事に任命してそのまま統治にあたらせます。
しかし、1871年の廃藩置県では藩は廃止され、旧藩主は東京に集められました。藩は県にかわり、政府が任命した県令によって治められるようになります。ほとんどの旧藩主は抵抗しませんでしたが、薩摩藩の最高権力者だった島津久光は廃藩置県を西郷隆盛や大久保利通が自分を裏切る行為だとして強く反発しました。ともあれ、これで中央集権化の道筋がつけられます。
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失われる武士の地位
明治政府は江戸時代から続く制度(封建的諸制度といいます)の撤廃を目指しました。1871年、戸籍法を公布し公卿や旧大名を華族、幕府や藩の家臣だった武士を士族、その他の人々を平民と定めます。こうして、江戸時代から続く士農工商の身分制度は否定されました。このような動きを四民平等といいます。
また、明治政府は身分の区別なく満20歳以上の男子を徴兵する徴兵令を公布。武士以外の平民も兵士として徴兵されるようになりました。これは、武士だけが武器を持って戦うことを公認されるというかつての常識を覆したものです。
さらに、1876年には廃刀令が公布されます。藩を失い、よりどころを失いつつあった武士たちは自分たちの誇りの源である刀さえも奪われると感じたかもしれません。
経済的に苦しむ武士
そもそも、明治政府が武士たちを“リストラ”したがったのには理由があります。旧大名である華族やその家臣の士族は下級武士まで含めても全人口の5.7%に過ぎません。それなのに、歳出の30%は彼らへの給与である秩禄にあてがわれていました。できて間もない明治政府にとって秩禄の支払いは重い財政負担となっていたのです。
1873年、政府は秩禄奉還の法を出し、秩禄を返上するものには現金や利子が約束された秩禄公債の公布を行うとしましたが希望者は多くありません。1876年、政府は秩禄の支給を停止。かわりに、金禄公債という利子付きの債権を渡しました。これを秩禄処分といいます。
金禄公債は5~10年分の秩禄にあたる金額ですが、いつ現金として支給されるかは抽選でした。そのため、利子だけで生活できない元武士たちは金禄公債を安値で手放してしまいます。政府による一方的な秩禄処分は武士を経済的に追い詰めました。
明治六年の政変と征韓派参議の帰郷
1873年、岩倉使節団が欧米各国を訪問しているころ、留守を預かっていた西郷隆盛らは朝鮮をめぐる問題を討論していました。当時の朝鮮は鎖国政策をとっていて、開国路線に転じた日本との交流を禁じます。
参議の板垣退助は武力による朝鮮開国を主張。留守政府の最高実力者であった西郷は朝鮮派兵には反対し、自ら使節として朝鮮に赴くと主張します。留守政府内での意見は西郷の朝鮮派遣で決定しました。
しかし、欧米訪問から帰国した岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らは西郷派遣に反対します。彼らは朝鮮との外交問題よりも国内政治を優先するべきだと主張しました。最終的に岩倉・大久保・木戸らの意見が通り、西郷派遣は中止。
これに対し征韓論・西郷派遣を支持した参議たちはいっせいに辞職し帰郷。これを明治六年の政変といいます。帰郷した元参議らの周囲には新政府への不満を募らせる不平士族たちが群がりました。
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