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織田信長が天下を夢見た城~その本拠地となった5つの城~

乱れた戦国の世をまとめ、天下統一まであと一歩のところで倒れた織田信長。彼の覇業の陰には、その本拠地となった城郭がありました。生まれ育った那古野城から天下を統べるための絢爛豪華な安土城まで、彼は西へ西へとその地歩を広げていったのです。武田や上杉、北条や毛利など他の戦国大名たちとは違って、フレキシブルに動いていくそのさまは、さすがに中世の固定概念に縛られない自由な発想だったといえるでしょう。では、織田信長の足跡とともに移り住んでいった居城たちを解説してきましょう。

戦国の革命児誕生の城【那古野城】

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信長生誕の城だとされる那古野城(なごやじょう)。しかし信長が成長し、尾張国(現在の愛知県西部)を統一していく過程の中で廃城となりました。当時を偲ばせる遺構などは何も残ってはいませんが、その城としての役目は名古屋城へと引き継がれていくのです。

戦国乱世の渦中に吉法師が生まれる

16世紀前半、守護大名である斯波氏の衰退に伴って、尾張国はまさに群雄割拠。同族同士が相争う乱れた様相を呈していました。そこに付け込んで尾張にまで勢力を伸ばしてきたのが、隣国遠江を制した今川氏だったのです。

今川氏は、現在の名古屋市中区に那古野城を築き、尾張進出の拠点とします。ところが1534年、分裂して争っていた織田一族の中でも台頭著しかった織田信秀が計略を用いて今川方の部将を追い出し、自らの本拠としたのです。

それから2年後、信秀にとって待望の嫡男が誕生しました。幼名は吉法師。後の織田信長のことです。ところが、通説では信長は那古野城生まれということになっていますが、史料や文献では、信秀の那古野城奪取の年代に辻褄が合わないということもあり、最近の研究では勝幡城(現在の愛西市と稲沢市の境付近)で生誕したのではないか。ということが定説になりつつあります。

ただ、いずれにしても信長が育ち、家督を継ぐまで那古野城を本拠としたことには変わりはありません。

父の死により家督を継ぐ信長

吉法師は13歳で元服。三郎信長と名乗ります。父の信秀は武勇に秀でた武将で、織田一族の中でも抜きんでた存在でした。尾張国内から今川氏の勢力を追い出して隣国三河(愛知県東部)にまで進出し、これまた隣国の美濃(現在の岐阜県)国境でも斎藤道三と争って地歩を広げています。

しかし、二正面に敵を抱えるというのは無理な話で、次第に東西から圧迫され、不満を持った同族からの謀反も相次いだため、斎藤道三とは和睦することになったのでした。その和睦の条件が道三の娘濃姫(帰蝶)と信長との婚姻だったのです。

1549年、信長は無事に濃姫を娶りますが、それでも織田の状況は厳しく、今川との戦いで敗戦が相次ぎました。そんな最中、父の信秀が死去。厳しい局面の中を信長が家督を継いだのです。

謎に包まれた那古野城の全貌について

その後、信長が叔父の信光と結んで守護代家を滅ぼして清州城を手に入れると、那古野城から清州城へ本拠地を移しました。その後、那古野城は幾人かの城主が交代で入城していたようですが、1580年前後に廃城。そのまま原野に返ってしまったようです。

しかし徳川家康が幕府を開き、改めてその立地の重要性が認められると、1609年、尾張徳川家の統治する城として名古屋城が造営されました。その際、那古野城跡も囲い込むように取り込まれたのです。那古野城のあった場所は、名古屋城二の丸もしくは三の丸付近であったらしく、名古屋市教育委員会愛知県埋蔵文化財研究センターなどの発掘調査によって、その全貌が明らかになりつつあります。

一定の規則性を持つ溝があり、それが居館や家臣団屋敷の区画を表すものであること。

さらに大きな溝が発見されており、おそらく空堀だと考えられること。

信長が清州へ移ってのちも大規模な拡張があったであろうと推察されること。

などから、清州城へ信長が移って以後もしばらくは廃城せずに重要視されたということが結論付けられるのではないでしょうか。

愛知県埋蔵文化財研究センターの松田氏によれば、経済の拠点として清州城を。そして軍事の拠点として那古野城をセットとして存在させ意識していたのでは?と研究論文を発表されています。だとすると、信長が清州城へ移ってのちも那古野城は拡張を続けていた。ということが納得がいきますね。

尾張統一のための城【清州城】

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1554年、主筋である尾張下四郡の守護代【織田信友】を滅ぼして(定光寺年代記による)、清州城を手に入れた信長。この城こそが若き信長の尾張統一のための本拠地となります。しかし、まだまだ内外に敵も多く、血の繋がった弟でさえも敵だったのでした。

尾張の中心地だった清州

現在は愛知県清須市に位置し、新幹線の車窓からも立派な模擬天守閣が見える清州城。徳川氏によって名古屋城が造営されるまで、そこは尾張国の中心地でした。ところが現在の清州城の位置と、信長時代の清州城の位置は全然違っているのです。

信長死後の清州会議で、信長次男の信雄が【清州の地】を継承してからしばらく後、天正大地震の影響で元々の清州城が液状化し、使い物にならなくなりました。そこで信雄がまったく新しい縄張りを施し、そこに新しい清州城を造営したのです。

愛知県埋蔵文化財センターの鈴木正貴氏は、信長時代の清州城について、約200メートル四方の館城(やかたじろ)程度だったのでは?と指摘されています。四方を囲む堀や土塁などはあったものの、信長時代には石垣すら築かれず、まだ当時は石垣を積むという発想すらなかったのでは?ということなのでしょう。

それでも名古屋城が完成するまでは尾張の中心地だったということで、文献史料によれば、1554年以降の信長在城時には、大規模な町家が出現し、それが城下町を形成していたとのことです。

尾張統一までの苦難の道

織田の家督を継ぎ、本拠地を清州城へ移した信長でしたが、尾張国を統一するまでにはまだまだ苦難の道のりが待っていました。尾張の織田家といえば、【上四郡】を治める岩倉織田家と、【下四郡】を治める織田大和守家とが存在しており、信長の家系はまだそれらの家よりも格下の家柄。信長は1554年に織田大和守家を滅ぼして清州城を奪い、下四郡の実権を握りますが、内外に敵が多い状態でした。

斎藤道三と結んで後ろ盾を得ますが、信長の弟である信勝(信行とも)を担ぎ上げる一派が家中に存在し、上四郡を治める岩倉織田家も信長にとっては強敵そのものでした。さらには最も強大な敵が東の国境を接する今川氏であり、まさに信長の周囲は敵だらけという状況でした。

さらに悪いことには、頼みの綱だった斎藤道三が息子義龍との争いの中で戦死し、それを見た弟信勝が兵を挙げて反旗を翻したのです。血の繋がった弟といえでも反逆の芽は摘まねばなりません。結果は信長の勝利に終わり、信勝を抹殺。そして返す刀で岩倉織田家をも屈服させたのでした。主家を滅ぼし。実の弟を手に掛け、後に尾張守護でもある斯波氏すら追放したうえで、ようやく尾張国統一が実現したのでした。

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明石則実