江華島事件以降の朝鮮王朝の混乱
当時の朝鮮王朝は、国王高宗の力が弱く、実質的な権力をめぐって、清朝派で国王の父君であった興宣大院君と日本びいきの正妃である閔妃一族が権力争いを繰り広げていました。互いに、清と日本と手を結び、それを背景にして権力争いをしたのです。したがって、清も日本も容易に軍隊を朝鮮半島に駐留させられるようになっていたのです。
朝鮮王朝に内では、清朝派と日本派がどちらにつくかでいつももめていました。
朝鮮王朝内の混乱とそれに付け入った日本と清の対立
朝鮮王朝のこのような状況は日本政府にとっても朝鮮半島に進出する機会ととらえ、ことあれば軍隊を朝鮮半島に出兵させようと機会を狙っていました。一方、元々の朝鮮王朝の宗主国であった清は、その立場を維持しようと興宣大院君と結んで、朝鮮王朝内に一定の勢力を持っていたのです。
日本の最初の朝鮮出兵と介入回避へ
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日本が朝鮮半島に最初に出兵したのは、1882年に壬午(じんご)軍乱が起こった時でした。日本政府は、閔妃の要請で軍事顧問団を派遣し、軍制改革をおこなっています。これに兵士たちが不満を持ち、日朝修好条規で国内経済が悪くなったことに不満を抱く民衆が合流して、日本公使館などを襲撃する事件が起こったのです。これを機会に興宣大院君派は清国の軍隊を呼び寄せ、鎮圧するという壬午軍乱に発展しました。そのため、清国の朝鮮王中に対する影響力が強まり、日本の影響力は後退してしまいます。
さらに、1884年には、朝鮮の近代化を掲げた独立党が日本軍の支援を受けて、クーデターを起こしますが、これも清国軍によって鎮圧されてしまうのです。これが甲申(こうしん)事変でした。
日本と清の軍隊は一時的撤退
朝鮮半島の反乱鎮圧の後に、日本政府は、清国政府と話し合いをおこないます。そして朝鮮半島から清国軍、日本軍ともに撤退すること、出兵する際には互いに通告すること、そして当面朝鮮半島には介入しないことを約束した天津条約を結びました。清はこれにより、一定の影響力を朝鮮半島内に維持することができたのです。この事態に対して日本国内では批判が高まりました。そのため、日本政府や軍部の中には、朝鮮半島への出兵の機会をうかがう雰囲気が高まっていきます。
甲午農民戦争による本格的な朝鮮出兵と日清戦争の勃発
1994年に経済が悪化して、朝鮮半島では農民の大規模蜂起である甲午農民戦争が起こります。朝鮮王朝における権力争いの結果、政治が荒れ、経済が疲弊して農民などへの負担が強まったことに対して農民が反乱を起こしたのです。この反乱に対して鎮圧できる力のなかった朝鮮王朝は、清国とともに日本にも出兵して鎮圧するように要請をおこないます。そのため、清国と日本政府は朝鮮半島に軍隊を派遣して反乱を鎮圧しました。しかし、鎮圧した後も、互いに軍を撤兵させずに対立してしまったのです。
日本の初めての海外戦争である日清戦争の勃発
そして、ついに日本と清の軍隊は朝鮮半島で衝突し、日清戦争が勃発したのです。しかし、アヘン戦争以来の戦争に負けても清の軍隊は旧来の軍事力を強化できておらず、明治維新以降近代兵器の導入や軍事訓練を積んだ日本軍は清軍を圧倒しました。そして、短期間のうちに勝利したのです。そして、清との講和会議が下関でおこなわれ、日本は日本の国家予算を大きく上回る多額の賠償金を得るとともに、台湾、遼東半島、澎湖諸島などの割譲を受けました。
日清戦争による日本の近代化の進展
日清戦争によって大規模な賠償金を得た日本は、その資金によって八幡製鉄所などを設立して、鉄鋼、鉱業、造船などの重工業産業の生産力拡大を図り、産業の近代化を進めました。これによって、国際的にも日本の近代化が認められます。しかし、日本が近代化を果たし、東アジアで大きな勢力となることに警戒されるようにもなったのです。
特に、南下政策をとっていたロシアは、朝鮮半島から中国東北部への進出を狙っており、日本が朝鮮半島から中国の一部である遼東半島の支配権を持つことに反対しました。