日本の歴史飛鳥時代

日本史上初の国外戦争「白村江の戦い」とは?わかりやすく解説

白村江の戦いは、歴史上、日本が参加した正式な海外での戦争でした。三国時代の朝鮮半島で当時の日本(倭)と関係が深かった百済が新羅との戦いで崩壊の危機になったために、日本の朝廷は援軍を朝鮮半島に送ったのです。しかし、当時アジアの覇権国であった唐と連合を組んだ新羅に敗れてしまいました。 この白村江の戦いについて解説します。

白村江の戦いとは_最初の国外での戦争

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日本書紀にも記載されている白村江の戦いは、古代の西暦663年(天智2年)に初めて日本が参加した国外での戦争でした。百済の遺臣の要請を受けて日本の大和朝廷が派遣した日本の水軍は、朝鮮半島の白村江(現在の錦江)の河口で新羅と唐の連合軍と遭遇し、ほとんどが沈められてしまったのです。白村江は白江とも言われていました。

この白村江の戦いは、歴史の教科書にも記載されており、覚えている方もいると思います。しかし、この戦争での敗北によって、古代において大化の改新などで英雄と言われた中大兄皇子(天智天皇)は悲嘆の遷都を余儀なくされたのです。

この白村江の戦いについて詳しく見てみることにしましょう。

白村江の戦いはなぜ起こったのか

白村江の戦いは、なぜ起きたのでしょうか。それまで、日本が国として朝鮮半島に進攻したことはなく、初めて国外に派遣した軍隊でした。倭寇と言って、海賊などが朝鮮半島の沿岸地域を侵略したことはありましたが、朝廷が外国に軍隊を送ることは、歴史上それまでなかったことです。

その背景には、660年頃、百済が唐と新羅の連合軍に敗れ、滅ぼされていたことがあります。百済の遺臣の鬼室福信らが、大和朝廷に援助を要請し、日本に人質的に滞在していた百済の扶余豊璋王子を国王に立てて、百済を復興させようとしたのです。扶余豊璋王子も国が滅亡するという事態に帰国を希望し、国を復興させたいと願いました。そのため、当時天皇即位はしていませんでしたが、実質的に朝廷で実権を握っていた中大兄皇子もついに派兵を決定したのです。

もともと皇太子時代から中大兄皇子は、不穏な朝鮮半島への派兵には反対で、651年に朝廷に新羅征討の進言がありましたが、それを退けていました。それでも、ついに派兵を決断したのです。

百済、新羅と日本の関係はどのようなものだった?

朝鮮半島南端には、大和朝廷と祖先を同じくする倭族が住んでおり、朝廷とも交流がありました。教科書などでは任那日本府と記載されていた伽耶(カヤ)ですが、彼らを通して、朝鮮半島の三韓時代を築いていた南部の百済とも交流をおこなっていたのです。

朝鮮半島の中でも強い力を持って、当時倭国と言われた日本に仏教を伝えたのもこの百済でした。仏教への帰依の厚かった聖徳太子は600年に新羅への派兵をおこなおうとしましたが、蘇我氏らの反対で実現していません。

一方で、6世紀までの新羅は、高句麗と百済に挟まれて最も弱い立場でした。しかし、7世紀に入ると唐との関係を強化し、その冊封国となって、7世紀中頃には唐との連合軍を形成して高句麗に侵攻して滅ぼします。その勢いで百済にも進攻を進めたのです。そして660年についに百済も滅ぼすに至り、三韓統一を実現しました。韓流ドラマなどでも、「善徳女王」などで当時の新羅が描かれています。なお、冊封というのは、中国の王朝を宗主国とした従属国のことです。

古代の朝鮮半島と日本の関係

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弥生時代から、日本列島には朝鮮半島を経由して多くの渡来人が難民として来るようになりました。6世紀までは多くの渡来人が日本列島に来て、大和朝廷の成立に影響を与えていいたのです。縄文時代末期の日本列島の人口は、10万人と言われており、それが奈良時代初期には450万人まで増加しています。大和朝廷の天皇家(大王家)そのものが、中国長江にいた倭族の末裔である可能性が高いのです。

弥生時代にさかのぼる中国大陸と朝鮮半島との関わり

紀元前10世紀前に、中国では気候が寒冷化にし、それに伴って黄河流域の漢(中華)民族が南部長江流域へ進出を始めました。もともと長江流域に住んでいた稲作(水稲)農耕民の倭族は、黄河流域の漢民族によって圧迫を受け、倭族はいろいろなところへ移動を余儀なくされたのです。現在の雲南省や台湾に移動した人たちもいました。倭族の多くは、黄海を渡って遼東半島や朝鮮半島南部、北九州への移動(難民化)していったのです。

そして、彼らの持つ水稲農耕の技法が日本にも伝わり、弥生時代がスタートしたと言われています。

その後も、中国での、前漢の滅亡や後漢の滅亡などの大規模政変による混乱が起こるたびに人口崩壊が起こり、遼東半島にいた朝鮮民族も朝鮮半島に移動しました。さらに、中国そのものから逃げてくる難民が朝鮮半島や日本列島に押し寄せたのです。中国の古代の戸籍簿によれば、前漢末に6,000万人いた人口は、新代には2,900万人にまで減少したと記録に出ています。すべての人が朝鮮半島や日本列島に避難した訳でもありませんが、大規模なゲルマン民族の大移動に匹敵するような人口移動が東アジアにおいて生じていたのです。

大陸、朝鮮半島からの渡来民の日本列島への移動

後漢後にも中国大陸では人口崩壊が生じており、多くの渡来人が朝鮮半島を経由してこの日本列島に移動をしてきました。ちょうど、邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを出した頃であり、邪馬台国の場所を考える場合には、この中国大陸の人口崩壊の影響を考慮しておく必要があります。

その後も、大陸からは多くの渡来人がこの日本列島に移住して来ており、古墳時代には渡来民が日本列島の人口増加に大きく寄与しているのです。そして、一族を率いて渡来した人々は大陸の技術を日本列島にもたらし、豪族となって大和朝廷による古墳時代を花開かせました。

大和朝廷と大陸との関係

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古墳時代には、日本に倭国があったと中国の史書では記載されていました。しかし、大和朝廷が倭国であったとは限らないのです。

倭の五王は歴史の教科書でも有名ですが、中国の史書に記されたこの倭の五王の家系と雄略天皇などの当時を描いた日本書紀の家系図にはかなり違いが見られます。中国の王朝に冊封された国の1つと中国史書には記載されており、朝鮮半島との関わりもうかがわせる内容になっているのです。日本書紀には、神功皇后の時代にわずかに朝鮮半島との関わりの記載はあるものの、本格的な記載は見られません。朝鮮半島の歴史書は、日本書紀よりもかなり後代のものになり、倭寇の侵略記事はあるものの、倭国が侵略したとは記されていないのです。

有名な好太王碑にはやはり倭寇のことが書かれていますが、必ずしもそれが大和朝廷であったとは特定できません。朝鮮半島南部の倭族である伽耶であった可能性もあります。

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