室町時代戦国時代日本の歴史

「鬼義重」として恐れられた「佐竹義重」をわかりやすく解説!実は美人も美少年も大好きだった!?

常陸(ひたち/茨城県)の戦国大名・佐竹義重(さたけよししげ)は、「鬼義重」という異名を持ち、敵将からおそれられた武将です。南北を強力な勢力に挟まれながらも、戦だけではなく外交にも能力を発揮し、戦国時代を乗り切りました。一方で、彼には武将らしい剛毅な逸話や美人や美少年を愛したエピソードも伝わっています。彼はいったいどんな人物だったのか、ご紹介していきましょう。

誕生から家督継承、戦国時代の荒波へと漕ぎ出す

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常陸に生まれた佐竹義重は、15歳で家督を継ぎました。当初は父の後見がありましたが、その父が急死してしまうと、重責は彼の肩に一気にのしかかります。若い彼を軽く見た周辺勢力からの反抗を受けるなど苦境に陥った義重でしたが、持ち前の武勇と外交力を発揮し、難局を乗り切っていったのでした。

常陸の名門・佐竹氏の跡継ぎとして誕生

佐竹義重は、天文16(1547)年に常陸の戦国武将・佐竹義昭(さたけよしあき)の長男として生まれました。

佐竹氏は、源氏の流れを汲み、平安時代後期から常陸を拠点としてきた名門武家。そして父・義昭は常陸を統一する勢いでした。そんな中で、義重が15歳となった永禄5(1562)年、彼は家督を父から譲られます。とはいえ、父がしばらくは実権を握っていたようですよ。まだ15歳の義重には、その方が心強かったかもしれません。

しかし、父・義昭は、永禄8(1565)年にまさかの急死を遂げてしまいます。まだ35歳という若さでした。

父を失い、四面楚歌の状態に

父という強力な後ろ盾を失ったことで、義重はこれまで佐竹氏に従うかのように見せていた周辺勢力から、一気に反抗されてしまいます。この時期は、彼にとっていちばん厳しい時期だったことでしょう。

しかし、義重はここでつぶれたりはしませんでした。父の存命時からすでに彼は上杉謙信と連携しており、近隣の小田氏治(おだうじはる)や隣国の那須氏、白河氏、蘆名(あしな)氏などと対決したのです。時には戦場で刀を振るい、時には外交で懐柔するなど、彼はまさに知勇兼備の武将でした。その快進撃は目覚ましいもので、彼は南東北から北関東にかけて一大勢力圏を築くことに成功したのです。しかしそれは同時に、南関東の雄・後北条氏に真っ向から立ち向かわなければならないことを意味していました。

勢力拡大と基盤安定のために、周辺との姻戚関係を次々と構築

義重の最大の敵となった、後北条氏。関東の諸将は、後北条氏に対して服従と反抗を繰り返す状況でしたが、義重は立ち向かう態度を崩しませんでした。後北条氏との戦いで、彼は7人の敵を一瞬で斬り伏せるなど勇猛さを存分に発揮し、「鬼義重」「坂東太郎」という異名をつけられたそうです。

その一方で、義重は自分の子供を養子に入れたり、嫁がせたりするなどして、周辺の武将たちと姻戚関係を結ぶことにも力を入れました。戦国武将が生き延びるためには、姻戚関係と言うのはとても重要だったのです。裏切られることももちろんありましたが、やはり血のつながりを持つと言うことは、自身の勢力基盤を安定させるためには必要不可欠でした。そのことを、義重は重要視していたのです。

また、義重は早くから豊臣秀吉と交流を持っていました。この頃まだ秀吉は完全な天下人ありませんでしたが、義重はすでに秀吉がただならぬ人物であることを見抜いていたのだと思われます。秀吉と通じることで、関東で義重の最大の脅威となっている後北条氏への対抗策としたのでした。

伊達政宗との息詰まる抗争

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義重の南の脅威は後北条氏でしたが、目下の敵は、東北で着実に勢力を伸ばしてきた伊達政宗でした。両者は蘆名氏を間にして対立し、何度も戦を繰り返します。当初は義重が勝利を収めていましたが、やがて政宗が盛り返し、義重は政宗と後北条氏に挟まれて窮地に追いつめられてしまいました。義重はいったいどうなるのでしょうか。政宗との息詰まる戦いの様子を見ていきましょう。

蘆名氏の次に現れた新たな敵・伊達政宗

常陸の北に一大勢力を築いた蘆名氏もまた、義重にとっては手ごわい敵でした。

しかし当主・蘆名盛氏(あしなもりうじ)が亡くなり、その後当主となった蘆名盛隆(あしなもりたか)とは和睦が成立します。ところが、今度はさらに北から曲者が登場したのです。それが、伊達政宗でした。

政宗は東北地方を飲み込まんばかりの勢いで領地を広げ、ついには蘆名氏の領地にまで侵攻してきました。となると、次に相手となるのは義重だったのです。

大局を見る目を持っていた義重は、政宗がいかに自分の脅威となるかはわかっており、これを危惧していました。だからこそ、早めに叩かねばと思ったのでしょう。

天正13(1585)年、義重は蘆名氏など南東北の諸将と手を組み、連合軍として政宗の軍勢と対決しました。これが、「人取橋(ひととりばし)」の戦いです。

「生涯の大戦」に勝利する

兵の数は連合軍が圧倒的に多く、伊達軍の4倍以上でした。このため、戦自体は義重ら連合軍の圧倒的な勝利となりましたが、伊達政宗の家臣たちのすさまじい奮闘があり、政宗はすんでのところで難を逃れ、結局、義重は彼の息の根を止めることはできなかったのです。

しかもその晩、義重ら連合軍の陣中で、義重の叔父が刺殺されるという事件が発生しました。また、常陸本国に後北条氏が攻め込むという情報が入り、義重はすぐさま撤退せざるを得なくなったのです。もう少しで伊達軍を壊滅させることができるはずだったのですが、悔しい思いで義重は戦場を後にしたのでした。

この戦は義重にとってとても印象的なものだったようで、後に彼はこの戦のことを「生涯の大戦」と語ったそうです。

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