安土桃山時代日本の歴史

なぜ豊臣秀吉の「朝鮮出兵」は行われた?その理由をひも解いていく

豊臣秀吉は織田信長の亡き後、後継者として天下布武を成就させ、関白の地位を得るまでになりました。その後全国の大名を引き連れて、朝鮮へ出兵したのです。日本国内の政治面や経済法律面、さらには交通面などの社会のインフラが整う前に20万から30万もの大軍で出兵しました。その理由は謎とされていましたが、実は織田信長の遺志を継ぐための手段だったのです。

秀吉の朝鮮出兵は本能寺の変で決まった

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朝鮮出兵は秀吉が関白として実権を握るようになってから決めたものではなかったのです。そもそも朝鮮出兵とは何だったのかといいますと、信長の死とともに消えた火薬となる煙硝仕入れルートの復活のためのものでした。実は信長は煙硝仕入れルートの拠点を軍事力で押さえることを考えていて、本能寺で爆殺されたのです。それとともに今までの全ての煙硝仕入れルートが機能しなくなりました。秀吉は前よりも好条件を提案して大量受注によって仕入れルートを取り戻そうとしたのです。

しかし煙硝は仕入れるだけではなく、鉄砲とともに消費しなければなりません。信長の果たせなかった天下布武を何とか成し遂げた秀吉にとって、煙硝消費のために再度国内で戦をくり広げるわけにもいきません。そこで秀吉が取った選択が大量に仕入れた煙硝を中国大陸で消費することだったのです。しかも煙硝のための支払いを自国の金銀ではなく、合戦で切り取った中国大陸の領地からまかなったもので行うことが画策されました。

朝鮮出兵のために発揮された秀吉の人たらし作戦

朝鮮出兵に対しては、大義名分がなければ成り立ちません。特に東北など遠方の大名を動員するには大名が心から納得して、家臣たちとともに一丸となって働くようなきっかけが必要となったのです。そこで秀吉は大義名分をスペインの脅威に対抗するものとして、日本全体の国防に関わるものとして説得しました。世界最強の国スペインが制圧していない国は明国や朝鮮、日本だけであり、明国が植民地化されることで、スペインの支配下の元で明の軍勢が日本に押し寄せてくる、すなわち日本にとっては第三の元寇の役が発生するといった脅威を各大名に抱かせたのです。

秀吉による逆大本営放送

スペインなどによるキリスト教布教の結果、キリシタン大名が生まれ、その反作用としてキリシタン大名による自国の領土内における神社仏閣に対する弾圧が発生していました。しかしそれは局地的なものであり、日本全体を揺るがすものではありませんでした。しかし秀吉はその事実に目を向けます。神社仏閣の被害は日本が既に攻撃されている証拠であり、このまま朝鮮出兵で明国のスペインによる植民地化を阻止せねば、いずれ国土全土が廃墟と化してしまうと大々的に各大名に訴えたのです。

この秀吉による「このままでは日本全体が廃墟になる」と説く逆大本営放送で、見事に各大名の国土を守らんとする志気を高め、自国の領民を朝鮮出兵へ総動員する動きに持っていくことに成功しました。また秀吉は、各大名を肥前名護屋城に集めることで、それぞれの大名が同調圧力により、まさに日本全体に危機が迫りつつあることを意識し始めたのです。

スペイン総督府と対峙することで脅威の既成事実を作った

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秀吉は朝鮮出兵への大義名分としてスペインの脅威を大々的に訴え、実際に朝鮮へ出兵し、戦いを交えることで、大義名分に基づく戦をすることに成功しました。しかし肝心のスペインが高みの見物ではいずれそのことが商人やキリシタン大名を通じて、各大名に知れ渡るやもしれません。そのことを秀吉は非常に恐れていたのです。そこで実際に日本がスペインと対峙する状況を作り出すことにしました。その方法としてまず取られたのが、ルソンにあるスペイン総督府に対して臣下の礼を取るよう要求したことだったのです。

スペインは後世の調査によって世界のおよそ8割を支配していたことがわかっています。しかし日本においてはそのようなことは知る由もありませんでした。今のように通信技術や移動手段が発達しているわけではないため、スペインの脅威については宣教師や南蛮商人を通じてしか知ることができません。その上布教を広めたいスペインにおいては、みすみす自国の世界征服の現状を話すはずがありません。そのため本来であれば日本がスペインに対して臣下の礼を求める動機自体がないので、日本が朝鮮出兵する必要はないのですが、日本が軍事行動に出たことは、スペインにとっては、自国と同じような世界征服を視野に入れている国であると解釈する余地を十分に与えてしまったのです。

スペインは日本の軍事力の高さを見せつけられた

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スペインが征服した国の殆どは、スペインが征服前に供給した鉄砲をコピーして量産することはできませんでした。しかし日本だけは違っていたのです。蓋を開ければ世界中の鉄砲のおよそ半数が日本で製造されたものになってしまいました。そのような中、日本には世界に通用する軍事力が秘められているといった解釈がスペイン側で生まれてしまったのです。この状況下、スペインのルソン総督府に対して日本に入貢するよう日本が国書を送りつけたことは、悪ふざけには映らなかったことでしょう。

臣下の礼を要求する国書に対してスペインからの返書がこない状況に対して、秀吉は原田喜右衛門を派遣することで直接書簡を総督府に届けさせました。ちょうどその時、現地に在住の中国人およそ2千名が反乱を起こしてスペイン総督府を襲撃したのです。スペイン総督府も応戦しますが多勢に無勢で窮地に陥っていたところを、原田喜右衛門はスペインに加勢してすぐに鎮圧します。このことがスペイン本国にとって日本の軍事力の高さを証明することにつながったのです。そして煙硝仕入れルートの奪回にも成功したのでした。ちなみにこのタイミングで発生した中国兵による反乱はスペインに脅威を与えるための演出である可能性も否めません。

朝鮮出兵の目的は達成されたのか?

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日本による煙硝仕入れルートが確立し、本来の目的が達成されたため、秀吉が亡くなった後に朝鮮出兵は取りやめになりました。信長も秀吉も、煙硝仕入れルートを押さえ、自分が管理する分にはよいが、他の大名に渡ることは戦乱の世を招くとして恐れていたのです。そのため煙硝仕入れルートを中央一元化で管理することが必要でした。信長が利権争いの結果、本能寺で滅ぼされた後、秀吉が、中国大陸での煙硝の大量消費を見込んで大量発注し、取引条件を譲歩したことで、何とか煙硝仕入れルートを復活したのです。

また中国大陸に自国の兵力を投入しなければならない中、あえてスペインを脅威に見立てました。さらには実際にスペインと対峙するのを演出することで揺るぐことのない既成事実を作り上げたのです。そうすることで朝鮮出兵の本来の目的すなわち、煙硝仕入れルートの復活は達成されました。

秀吉は目的を達成するために国内外の情報操作を行った

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秀吉の行った朝鮮出兵は、豊臣政権の中だけではその理由はわかりません。秀吉は信長の遺志をついで失われた煙硝仕入れルートの再確保のために、煙硝を大量に消費する場所として、明国を選んだのでした。しかし自国の大名を動員するには大義名分が必要です。そこでスペインを脅威と見立て、さらにはスペイン国王に臣下の礼を求めることで、スペインと対峙している既成事実を作り上げました。諸大名を動員する手段として、権力や軍事力ではなく、情報操作を駆使していた秀吉の手腕には驚かされるばかりです。

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