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チェコスロヴァキアに起きた「プラハの春」をチェコ事件と共にわかりやすく解説

中央の古都プラハ。チェコの首都で街の中心部をヴルタヴァ川(ドイツ名モルダウ川)が流れる美しい街です。かつてチェコが社会主義国家チェコスロヴァキアだった時代、プラハで民主化の動きであるプラハの春が起きました。プラハの春はソ連などワルシャワ条約機構軍の介入によってあえなく挫折します。今回はプラハの春やチェコ事件の背景・経緯・その後についてわかりやすく解説します。

独立国家チェコスロヴァキアの誕生と共産主義国化

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チェック人のボヘミア王国とスロヴァキア人はともにオーストリア=ハンガリー帝国の支配を受けていました。第一次世界大戦でオーストリアが崩壊すると、独立国家チェコスロヴァキアとなります。第二次世界大戦の直前、ドイツのヒトラーはチェコスロヴァキアを解体しますが、大戦後に独立を回復し、社会主義国となりました。

チェコスロヴァキアの建国

10世紀にチェック人が建国したボヘミア王国は神聖ローマ帝国によって王位を認められてきた伝統ある王国です。隣国のスロヴァキアはハンガリーの支配下にあった地域でした。のちに、チェコとスロヴァキアはオーストリア=ハンガリー帝国の領土となります。

第一次世界大戦でドイツ・オーストリアが敗北し、ロシア革命でソヴィエト連邦が成立するとドイツ・オーストリア・ロシアの支配下にあった中欧・東欧の諸民族が一斉に独立しました。チェコスロヴァキアも民族自決の原則に基づき、オーストリア=ハンガリー帝国あら独立。新国家であるチェコスロヴァキア共和国が誕生します。

プラハを中心とするチェコは早くから工業化が進み政治や経済の面で先進していました。一方、スロヴァキアは農業地域。チェコはスロヴァキアよりも経済面で優位でした。この格差は両者の対立を生み出しました。

ナチスドイツによるチェコスロヴァキアの解体

1929年にアメリカを震源とする世界恐慌が起きると、世界各地は極端な不況に苦しみました。ドイツではヴェルサイユ体制の打破やユダヤ人の撲滅、共産主義の排除などを主張する国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の勢力が急速に増大。1932年の総選挙で、ヒトラー率いるナチ党が第一党となります。

1934年、ヒトラーは首相と大統領を兼任する総統に就任し独裁権力を確固たるものとしました。1938年、ヒトラーはオーストリアの併合に成功しドイツ民族の再統一を成し遂げます。

さらに、ヒトラーはドイツとチェコスロヴァキアの国境地帯で、ドイツ人居住民が多いズデーテン地方の割譲を要求。この問題を話し合ったミュンヘン会談でイギリス・フランス・イタリアはドイツの要求を承認しました。その後、1939年にチェコスロヴァキアはドイツによって解体されてしまいます。

チェコスロヴァキアの独立回復と共産主義国化

1939年、ドイツによるポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦がはじまりました。チェコスロヴァキアの元首相のベネシュは国外で亡命政権を樹立。ドイツに対して抵抗運動をおこないます。ベネシュは連合国やソ連と交渉し、支援を取り付けることに成功しました。

1943年、ドイツ軍がスターリングラードの戦いで敗北。この敗北によりドイツ軍の攻勢は完全に止められ、戦争の主導権は連合軍に移ります。圧倒的に不利になったドイツは1945年に降伏。チェコスロヴァキアも独立を回復します。

1946年、チェコスロヴァキアで選挙が実施されベネシュを大統領、共産党のゴットワルトが首相に就任しました。

1948年、アメリカの経済支援であるマーシャル=プランをめぐって受け入れたいベネシュとソ連の指導で反対する共産党が衝突。共産党は大々的なストライキを敢行する一方、グーデタを実行しベネシュらを排除しました。その結果、チェコスロヴァキアは社会主義国となります

プラハの春の経緯

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共産党のクーデタで社会主義化したチェコスロヴァキアはスターリンの指導の下、ソ連の衛星国となります。フルシチョフがスターリン批判を行うと、東欧諸国にも大きな影響が出ました。チェコスロヴァキアではドプチェクが「人間の顔をした社会主義」を目指します。しかし、フルシチョフ失脚後に権力を握ったブレジネフはドプチェクの行動を認めずワルシャワ条約機構軍を派遣して封じ込めました。

フルシチョフによるスターリン批判

スターリンが生きていたころ、チェコスロヴァキア共産党はスターリン式の計画経済を行っていました。ゴットワルトが死去すると、共産党の指導者はノヴォトニーにかわります。

1953年、スターリンが死去しフルシチョフが指導者となりました。1956年、フルシチョフはソ連共産党第20回大会でスターリンの政策を批判します。従来のスターリン体制に対して反感を持っていた東欧諸国では自由化要求が高まりました。

特にポーランドとハンガリーでは反ソ暴動に発展します。しかし、ソ連は自由化を認めません。ハンガリーには軍を派遣して暴動を鎮圧しました。チェコスロヴァキアでは暴動こそおきませんでしたが、社会主義体制内での変革を求める動きが強まります。

ドプチェクが主導した「人間の顔をした社会主義」

暴動にまで発展したポーランドやハンガリーとは異なり、チェコスロヴァキアでは従来のスターリン体制が維持されます。1960年代に入ると、スターリン式の計画経済は行き詰まりを見せ、経済面での停滞が問題となりました。

1967年に入ると共産党の指導者ノヴォトニーに対するチェコスロヴァキア国内の批判が高まりを見せます。

1968年1月、チェコスロヴァキア共産党の中央委員会でノヴォトニーにかわりドプチェクが共産党第一書記に就任。ドプチェクは改革派を登用することで民主化を進めようとしました。

ドプチェクは共産党と国家の分離、チェコ人とスロヴァキア人の平等、議会制民主主義の復活、経済の民主化などからなる「人間の顔をした社会主義」を推し進めようとします。ドプチェクらによるこれらの改革を「プラハの春」といいました。

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