幕末日本の歴史江戸時代

会津藩の歴史と初代藩主「保科正之」を解説!〜徳川家に最も信頼されていた藩と悲劇〜

今でも人気の高い時代幕末。この時代ではよく長州藩の人だったり、薩摩藩の人がよく取り上げられるのですがその敵であった会津藩も大変人気のある藩でした。 この藩は長州藩や薩摩藩の最大の敵として戦い最終的には会津戦争へとつながっていくことになるのですが、どうしてこの会津藩は最後まで幕府側に立ったのでしょうか? 今回はそんな会津藩の歴史について見ていこうと思います!

会津藩の基本データ

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会津藩は陸奥国の真ん中ら辺にある会津地方を中心に治めていた藩のことです。石高は23万石。本拠地は会津若松城(鶴ヶ城)です。全国を見渡して見ても15万石超えたら中堅の藩と呼べるので会津藩は大藩といっても遜色はないかもしれません。

また、会津という地域は秀吉の時代から東北地方の抑えとしての意味合いが込められており、戦国時代初期では伊達家、奥州仕置が行われて秀吉が伊達家の一部領地を没収すると、秀吉から一目置かれていた蒲生氏郷が入城。1595年に氏郷が亡くなり蒲生家が宇都宮に減封されると120万石で上杉景勝が入城するなど五大老格の人など秀吉から信頼されていた人がこの土地を任されるようになります。

この事は江戸時代に入ってからも相変わらずで家康から信頼されていた藤堂高虎が推薦されたりするなど奥州の守りを期待された人たちがこの会津という地域を治めていたのです。

そんな会津藩の藩主がコロコロ変わっていたとある頃、お隣山形藩から江戸幕府の歴史でも名君として讃えられるとある人物が入城することとなったのでした

藩祖保科正之の生涯

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会津藩を語る上で松平容保とともに重要とされている人物に保科正之という人がいます。この人は会津松平家の家祖として知られており、江戸幕府でも当時の将軍徳川家綱の補佐として活躍していました。

しかし、この保科正之が幕末の会津藩の行動を決定づける一因にもなるほど会津藩に良くも悪くも影響を与える人物となってしまいます。

まずは会津藩祖保科正之にスポットライトを当てていきましょう。

将軍の御落胤として

保科正之は1611年、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の子として生まれます。これだけみると将来の安定は約束されたものなんですが、実は正之という人は少し訳ありな人物でしてなんとご落胤という立場だったのです。

ご落胤とは一体なんなのかというと簡単に言えば子として認められていない人のことを指します。有名なご落胤に後小松天皇の子である一休宗純などがいますね。

つまり、保科正之という人は将軍徳川秀忠から正式な子供として認められておらず、もしかしたら命すら危うい状態でのスタートだったのでした。

しかし、子供を無理矢理殺すのも何か忍びないですので正之はあの武田信玄の次女である見性院に預けられることとなります。

その後、正之は武田家の家臣であった保科家を継ぐこととなり、自らの名前を保科正之にした上で保科家の領地であるた信濃国(長野県)の高遠藩の藩主となりました。

徳川家光との出会い

こうしてご落胤として生まれ、なんとか拠り所を手に入れた正之でしたが、実は高遠藩の藩主となる少し前の人生を大きく変える運命的な出会いをします。

それが江戸幕府第3代将軍となる徳川家光との出会いでした。家光が正之の存在を知ったのは家光がお忍びで成就院という小さな寺で休憩していた時にとあるお坊さんが高遠藩を治めている正之さんは実はあなたの弟なんですよ。という衝撃のカミングアウトをされたのが原因なんだとか。

それ以降家光は自身の知らなかった弟である正之の存在が気になるようになり、秀忠が亡くなって自身の待遇を機にする必要性が亡くなったのを機に正之は家光の家臣として働くようになります。

ここに家光が感動したそうで「本来なら弟として振舞ってもいいのに、家臣として支えてくれてる!なんて清廉潔白な人なんだ!」と正之の非常に謙虚な姿勢を気に入ってどんどん重役に取り入れるようになります。

こうして家光に大変気に入られた正之は高遠藩3万石から一気に6.5倍となる山形藩20万石の大幅な加増を受け、さらには1643年には会津藩23万石を治める大名として取り入れられました。

こうして徳川家でも重要なポディションについた正之は会津藩初代藩主として幕府を支えるようになるのです。

徳川家綱の補佐として

こうして会津藩の藩祖となった正之ですが、正之自身は江戸幕府内で重役として働いているため、あまり会津に行く事はありませんでした。

1651年に徳川家光が亡くなると、正之は次の将軍である徳川家綱の片腕として辣腕を振るうようになりました。

例えば正之が行なった政策に末期養子の緩和や殉死の禁止などがあります。これまでは藩主に子供がいなければ即座に藩はお取り潰しになったのですが、末期養子を許可したおかげで藩が潰れることを防ぎ、藩が潰れることで発生する浪人の数を減らすことに成功しました。

さらに、正之は民衆のための水源を確保するために玉川上水を開削。江戸の町の生活環境をより良いものにしたのです。

これだけ見ても十分なものなんですが、正之の有能さが分かるのが1657年に起こった明暦の大火でした。

明暦の大火によって江戸の町はおろか、幕府のシンボルとなっていた江戸城も西の丸を残して全て燃えてしまうなどの被害を受けてしまいます。

幕府からしたら将軍の威信に関わる重要な事なので逐一天守を再現したいと思った事でしょう。

しかし、正之はそんな事はしません。正之は天守を建てるお金や暇があるのであれば火事によって燃えてしまった家や生活の安定の方に尽力した方が幕府の威信が上がると説得。

次もしも火事が起こった場合燃え広げないようにするために上野などで広小路を作ったり、または避難しやすいように両国橋などの新しい橋を建設したりするなど民衆の生活の改善に力を注ぎます。また、民衆に対して炊き出しを行い、餓死から救うなどまさに君主のあるべき姿を体現してくれてるように見えますね。

会津藩の基礎を作る

保科正之は幕府の政治で辣腕を振るいましたが、彼は幕政から引退して会津藩に戻ってからと民衆のための政治をしていきます。

例えばもしも会津にて飢饉が起きた場合に備えるために社倉を設けました。これは豊作の時に米を買い占めて飢饉が起こった時に使うというものなんですが、このお陰か全国的に飢饉が起こった時でも会津藩では餓死者がいなかったんだとか。

また、彼の業績の一つに日本初の年金制度とも言われる社倉という支給制度も整えていきました。

普通なら税金は死ぬまで払わなければなりませんが、お年寄りでもう年貢を納めることができなくなったらちゃんと昔から年貢を納めていた時には生活できる分だけのお米も支給していたそうです。

このように今では当たり前になった制度も保科正之が日本で最初に考えついたものが非常に多く、まさしく明君にふさわしい人でもあったのでした。

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