室町時代日本の歴史

足利義満が金閣寺を建てた理由は?天皇位さえ狙った男の目論見

金閣寺の正式名称は鹿苑寺と言い、足利義満によって建てられました。テレビマンガの「一休さん」にも足利義満や金閣寺は登場しているので、知っている人も多いのではないでしょうか。足利将軍ではずば抜けて強い力を持っていた義満が金閣寺を建てた理由について解説します。

足利義満の金閣寺を建てた理由は何だったのか?

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京都は、国内で最も観光客の多い都市ですが、その中でも金閣寺は歴史的建造物として世界遺産にもなり、最も有名で人気の高い観光スポットになっています。外人観光客で溢れかえっていますが、その荘厳さには誰も見とれてしまうのです。金閣寺は、正式には鹿苑寺と言い、もともとは、鎌倉時代に藤原公経が西園寺(北山第という山荘)として建てたものでした。1397年(応永4年)に、室町幕府3代将軍足利義満がこの西園寺を譲り受け、改築と新築をおこなったのが金閣寺です。新築されたのは、金箔で覆われ、屋根には鳳凰が飾られている舎利殿であり、壮大な庭園を持つ金閣寺(北山第)の規模は当時から京の都でも注目の的でした。足利義満の死後、遺言により、この北山第は、禅宗のお寺となり、名前も鹿苑寺と変わったのです。

テレビ漫画の「一休さん」でも、将軍足利義満とともによく登場していたのが、この金閣寺でした。金箔で覆われ、勇壮な舎利殿は、現在でも日本国内でも最大の観光スポットとして人気になっているのです。

ただ、金閣寺の舎利殿は、1950年に一度焼失しており、現在の金閣寺舎利殿は1955年に再建されたものになります。

足利義満はなぜこのような豪華な金閣寺を建てたのでしょうか。

金閣寺は足利義満の別荘だった

足利義満は、この北山第と呼ばれた金閣寺を邸宅(別荘)として使用し、当時その規模は御所に匹敵するほどでした。このように大規模な、そして黄金に彩られた勇壮な別荘をなぜ足利義満は建てたのでしょうか。

その理由を見てみることにします。

南北朝時代を終わらせた足利義満の力

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足利幕府の初代将軍尊氏の時代以降を南北朝時代と言います。吉野に移った後醍醐天皇を南朝と呼び、室町幕府が立てた光明天皇は北朝と呼ばれて、権力争いがおこなわれてきました。しかし、3代将軍になった足利義満は、全国の有力守護大名らを抑えて、南朝方を制圧し、幕府権力を確立して、南北朝を終わらせたのです。

この足利義満が、本邸宅を北小路室町に移し、そこを政治の中心としたことから、足利幕府は室町幕府と言われるようになりました。この3代将軍足利義満の時代は、室町時代の中でも、最も将軍の力が強く、金閣寺を中心とした北山文化を開花させて、輝かしい時代だったのです。

したがって、足利義満の力は、当時としては飛ぶ鳥を落とす勢いであり、非常に力の強い将軍として、将軍職を息子の義持に譲った後も権力を持ち続けました。

金閣寺を建てた理由_足利義満の力の象徴だった金閣寺

金箔を施した舎利殿を中心とした金閣寺(鹿苑寺)は、非常にまばゆいばかりの美しさで、周囲の池の中にたたずむ金閣は多くの人たちの心を引き付けて止みません。京都には、同じ室町時代に8代将軍足利義政によって建てられた銀閣寺(慈照寺)があり、わびさびを写した質素さの美と言えますが、金閣寺とは好対照です。時代の背景を映し出している両寺院でした。

このように、銀閣寺とは好対照の黄金に包まれた金閣寺は、その勇壮な豪華さと規模の大きさで当時の人々を圧倒していたのです。それこそが、足利義満が金閣寺を建てた理由でした。我こそがこの日本の最高の権力者であると人々にわからせ、自らの象徴として建てたのがこの金閣寺なのです。

このころを北山時代、或いは北山文化と言われ、建物様式も北山様式と言われています。

金閣寺を建てた足利義満の人物像と一休宗純

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3代将軍足利義満は、どのような人物だったのでしょう。彼には、徳川幕府300年の基礎を固めた3代将軍徳川家光と通じるものがあります。二人とも、生まれた時から将軍となるべく育てられました。そのため、有力守護大名たちに対して遠慮なくものをいうことができ、大きな権力を手に入れたのです。

その壮大な北山山荘と言われた金閣寺を建てた足利義満自身と彼に関わりのあったと言われる一休宗純を見てみましょう。

金閣寺を建てた足利義満とは

足利義満自身は、同時代の歴史家などからは、傲慢さと卑屈さが同居した性格とも言われており、自己顕示欲が強い人だったようです。時間には厳しく、遅刻した者に対しては容赦なく厳しい処罰を行っています。一休さんなどでは、比較的温厚そうに描かれていますが、かなり傲慢で厳しさのある将軍だったようです。

このような足利義満であったからこそ、彼には金閣寺は天下一の山荘でなければなりませんでした。

知恵者一休宗純と足利義満の関係は?

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漫画では、一休さんは足利義満ととんち合戦をしており、屏風の虎退治などが有名ですが、実際にはどのような関係があったのでしょうか。足利義満の性格からしますと、とてもそのようなとんち合戦は考えられませんね。

一休さんこと、一休宗純は、後小松天皇を父に、母は藤原氏の出身であり、かなり身分としては高い方でした。そして、一休さんが育った時代は南北朝の終わりかけていた頃で、後小松天皇は、北朝最後の天皇になります。したがって、父の天皇は、当時の南朝と北朝の両天皇の権力争いに巻き込まれるのを恐れて、6歳で臨済宗のお寺に出家させました。

ただ、天皇一族でもあり、禅宗の坊主であったにも関わらず、精進料理だけでなく何でも食べて、酒も飲んでいた人物だったようです。その反面、権力やお金に対する執着はなかった人のようで、生涯貧乏でした。

したがって、実際の一休宗純は、お金や権力には無頓着で、派手好きで自己顕示欲の強い足利義満とは正反対の性格であり、むしろ足利家には距離を置いていたようです。そのため、実際にはとんち比べなどはおこなっておらず、ほとんど接触もなかったと考えられます。

「一休さん」はやはり漫画のお話の中の世界のようです。

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