安土桃山時代日本の歴史

秀吉の「刀狩り」は何のために行われた?~本当は刀を取締るものではなかった~

秀吉の刀狩りは、農民から銃や刀が取り上げることで、兵農分離を促進し、一揆を防止するためのものといわれますが、実際には刀を取り締まったのではなく、保有の登録に過ぎなかったといわれています。それでは何のために刀狩りが行われたのでしょうか?実は刀狩りは、外国からの武器弾薬供与の対価として蔓延していたある取引に対する秀吉独特の取締だったのです。

秀吉の刀狩りにおいてのこれまでの通説

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豊臣秀吉による刀狩令は天正16年(1588年)、発令された以下の3か条からなる法令でした。

【第1条】農民による刀剣類や槍、鉄砲などの武器の所持の禁止、年貢の怠りや一揆は処罰の対象

【第2条】徴収した武器は方広寺の大仏の釘やかすがいに当てられ、徴収に応じた農民はあの世にて救済

【第3条】農民が安泰に暮らせるために、保持するものは農具のみで耕作に励むよう取り計らわれた、農民を愛するがゆえの武器の徴収

以上の法令のうち、第3条では武器を徴収する理由の正当性を訴えています。このように秀吉による刀狩りは、農民から武器を取り上げることで、兵農分離を進めるとともに、一揆を防止するための法令とされていたのが通説です。

秀吉の刀狩りにおいての実際

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刀狩りといえども全ての農民から武器全てが徴収されたわけではありませんでした。法令通り刀狩りが行われたとされるモデル地域はありましたが、それでも名目上取締を行っただけであり、実際には名刀などの登録を農民に促すにとどまり、刀や槍、弓、銃は依然保管されたままでした。特に鉄砲などの銃は農民にとって武器というよりは害獣の駆除のために欠かせない道具と考えられており、刀狩りの登録の対象にはなっていませんでした。このように秀吉は農民から実際に武器を徴収することを刀狩りの目的としているわけではなかったのです。

そもそも銃は刀狩りの対象ではなかった

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刀狩りの対象として刀、槍、弓、銃が挙げられていましたが、そもそも銃は農民たちにとっては害獣駆除などの道具であり、武器そのものではありませんでした。特に火縄銃は一度発砲した後では筒の掃除や弾込めなどで時間がかかり、単体で使用するには非効率的であり、とても武器として成り立つことはありえませんでした。銃は発泡したときの音で害獣を追っ払う役目を負っていました。それゆえ刀狩りにおいても銃は害獣駆逐用の発砲音の道具として事実上は武器として考えられていませんでした。

農民に対して刀狩りをすることは事実上不可能であった

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秀吉が刀狩りをすることは事実上不可能でした。その理由としては農民にとって刀や槍は村で田畑を守るための自衛手段及び、戦が発生したときの出稼ぎ手段であったからです。村では少しでも年貢や食料確保のために、水利権や境界線を巡っての村同士の争いごとが絶えませんでした。さらに村同士で話し合いはするものの解決しない場合が多く、当時では調停機関があるわけでもなかったため、お互いに紛争に発展していました。紛争に至っては双方の村が武器を携えて戦にまで発展してしまい、互いに相手の村から「乱取り」と言われる相手の領地からの人や物の略奪行為が行われ、どちらか双方が皆殺しになったケースすらあったのです。

また村同士の紛争だけでなく、戦国大名による戦に向けて招集がかかった場合の武装にも刀や槍は欠かせませんでした。戦は敵地での乱取りは即収入につながるため、機会があれば招集に応じたのです。

農民にとって刀、槍を取り上げられることは死活問題であった

秀吉が天下統一を果たしたといえども、それがわかるのは豊臣政権が確定したことを歴史上で知る後世の人間のみです。当時の人々は秀吉が政権を握ることで戦国の世が終わったというお墨付きをもらったわけではありません。すなわち農民にとっては、秀吉の治世のさなかにも、新たに戦は起こるかもしれないわけです。そのため刀や槍は戦が起きたときに出陣に参戦するための道具として必需品だったでしょう。場合によっては自分のいる土地が攻め込まれるかもしれません。

また戦国武将による戦がなかった場合にも、田畑の境界線をめぐる紛争や水の利権においてのもめ事が起きていたことでしょう。この時代にはもめ事のたびに刀や槍を使っての実力行使による解決も頻繁に行われていたので、そうした場合に備えて刀や槍を普段から備えることは当然のことでした。農民にとって刀や槍などを放棄することは死活問題でもあったのです。

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