日本の歴史昭和

三井の大番頭として財閥を率いた「団琢磨」を元予備校講師がわかりやすく解説

三井・三菱・住友・安田。戦前は知らない人はいない巨大財閥でした。現在でも、多くの関連企業が生き残り、日本経済で大きな役割を果たしています。その中でも筆頭に挙げられるのが三井財閥。昭和の初期、三井の大番頭として財閥を率いたのが実業家の団琢磨です。しかし、団琢磨は昭和初期におきた血盟団事件で標的の一人とされテロに斃れました。今回は、三井財閥の歴史と団琢磨の暗殺について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

三井財閥の成長

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伊勢商人に端を発する三井家は、伊勢松坂から江戸に進出し三井呉服店を創業。「現金安売り掛け値なし」で江戸庶民のニーズをとらえることに成功しました。明治維新後、政府の資金援助要請にこたえることで政商として成長します。明治維新後、数々の事業で成功した三井は財閥となりました。中でも、三井銀行、三井物産、三井鉱山は「三井御三家」とよばれ、三井財閥の中核を担います。

江戸から続く名門商家三井家

三井家は、先祖をさかのぼると平安時代の名門貴族藤原道長につながるとされ、近江に移ったのち、三井姓を名乗りました。確実に記録が残っているのは江戸はじめの慶長年間。三井高俊伊勢松坂に質屋兼酒屋を開いたのが始まりだとされます。

質屋にしても、酒屋にしても開業するには大きな資金が必要であることから、それ以前に何らかの資産を得ていたとしても不思議はありません。

1673年、三井高利江戸に進出。越後屋三井呉服店を開業します。三井の商法は一風変わっていました。当時の常識では、訪問販売が主流で代金についても掛け売りが当たり前です。

ところが、三井は反物を店頭で販売。その上、現金安売掛け値なしの方式で販売しました。それまで、商人と買い手が互いに相談しあって値付けをしていたのを誰にでもわかりやすい定価販売を導入したことで一般庶民からもわかりやすいと評判になります。

その後、三井は両替商まで商売を拡大。幕府にも資金を貸し付ける御用商人となり、江戸府内でも指折りの豪商へと成長しました。

政商として成長する三井

戊辰戦争に勝利した明治新政府は、本格的に日本の近代化を推し進めようとしました。この時、明治新政府が最も困ったのは資金のやりくりです。三井は幕府の御用商人だったことから、政府への貸し付け実績があり、明治新政府も三井との取引を継続しました。

政府と関係が深い商人のことを政商といいますが、三井も政商の一員として事業を拡大させていきます。なかでも、政府が行う殖産興業政策は政商たちにとってビジネスを拡大させる大きなチャンスとなりました。

1980年代後半、松方財政の一環として政府が建設した官営工場の払い下げが行われます。三井をはじめとする政商たちは官営事業の払い下げを受けることでさらに事業を拡大させました。三井は新町紡績所富岡製糸場三池炭鉱の払い下げを受けることに成功します。

財閥となった三井

官営工場の払い下げにより、三井は事業規模をさらに拡大させました。松方財政以後、日本は幾度かの不況に見舞われます。不況により倒産した企業を買い集めることで、三井をはじめとする大企業は不況前よりもより大きく成長しました。

家族または同族が出資する親会社(持株会社)が中核となり、傘下の企業を支配する企業集団のことを財閥といいます。ピラミッド状の構造(コンツェルン)となっている財閥は、頂点にある持株会社が株の保有などにより、下位の企業を支配しました。

三井の持ち株会社は三井合名会社。この、三井合名会社の役員となることは三井財閥全体を支配することに繋がります。のちに紹介する団琢磨は三井合名会社の主席となり、三井財閥の総帥としてグループを統率する立場になりました。

銀行・物産・鉱山の三井御三家

明治時代の中頃になると、三井内部で徐々に組織や序列が形作られました。三井財閥の中で中核を担ったのが三井銀行三井物産三井鉱山です。この三社は三井御三家と呼ばれるようになりました。

三井銀行は1872年に三井組と小野組が共同出資して設立した三井小野組合銀行を始まりとします。明治政府との親密な取引もあり、三井銀行は順調に成長しました。日本銀行が設立されると、官金取引は減少します。かわって、民間への貸付が多くなりました。

明治時代末期の三井の貸し出し余力は三井・第一・三菱・住友・安田の五大銀行の中でも頭一つ抜けています。三井銀行の貸出額や預金高は三菱銀行の二倍に及びました。

三井物産は1874年に設立された先収会社に始まります。日本の海外進出にあたって総合商社である三井物産は、率先して出先機関を設け、日本の海外進出の象徴となりました。

もう一つの御三家である三井鉱山は、団琢磨によって御三家の一つになるまでに成長します。

三井財閥の総帥となるも、テロに倒れた団琢磨

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江戸時代後期、福岡藩士の家に生まれた団琢磨は、岩倉使節団への随行や海外留学によって最先端の鉱山技術を身につけます。三井鉱山の社長となった団琢磨は、最先端技術を活用して三池炭鉱の生産性を向上させ、三井鉱山を三井御三家の一つにまで成長させました。三井財閥の大番頭となった団琢磨は、1920年代の経済恐慌の中でも三井財閥を成長させます。しかし、恐慌に苦しむ民衆は、三井などの財閥に強い反感を持ち、団琢磨はテロの標的とされてしまいました。

団琢磨のプロフィール

1858年8月1日、団琢磨は福岡藩士神尾宅之丞の四男として生まれました。生まれた時の幼名は駒吉。12歳の時、団尚静の養子となりました。その後、藩校の修猷館に学びます。修猷館で共に学んだのが金子堅太郎でした。

1871年、明治政府は岩倉具視を大使とする岩倉使節団を欧米に派遣します。この時、団琢磨と金子堅太郎は旧藩主の黒田長知のお供として使節団に加わりました。団と金子はそのままアメリカで留学生となります。団はマサチューセッツ工科大学の鉱山学科へ、金子はハーバード大学へと進学しました。

帰国後、団は工部省に勤め三池鉱山の技師となります。三池の鉱山課長になった団はヨーロッパにわたって採掘技術を習得し帰国しました。官有物の払い下げにより三池炭鉱が三井に売却されると、団はそのまま三池鉱山に残ります

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