教養歴史

「大政奉還」と「王政復古」の違いは何?わかりやすく解説

日本史の教科書には、大政奉還も王政復古も掲載されていますが、その違いについての説明はほとんどありません。単に事実としてあったことのみ記載されているのです。中には、大政奉還と王政復古を混同している方もいます。この大政奉還と王政復古の違いについて解説しましょう。

そもそも大政奉還と王政復古は何が違うの?

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大政奉還と王政復古は、前者が1867年11月、後者が1868月1月とわずか1ヵ月半の近い時期に出されています。この大政奉還と王政復古はいったい何が違って、なぜ似たようなものが出されたのでしょう。

大政奉還は、当時の徳川幕府の15代征夷大将軍であった徳川慶喜が、朝廷(天皇)に対して今でいう政権を返上したことを言います。征夷大将軍は、武士の知行である領土の安堵(保証)を行う権利を持っており、武家社会の統治を行っていました。従って、大政奉還は、徳川将軍が持っていた知行権を返上するということなのです。

これに対して、倒幕を狙っていた薩摩の西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利通)、長州の桂小五郎(木戸孝允)と中堅公家であった岩倉具視が対抗して動きます。大政奉還によって徳川家が実質的に雄藩(諸侯)会議の議長として生き残ることを恐れて、新しい政府の樹立を宣言したのです。これを王政復古の大号令と言います。明治天皇の名の下に、徳川幕府を廃止し、また関白・摂政などを廃止して、新たに三職を設置するという新たな政府の樹立宣言でした。三職は、総裁、議定、参与を言いますが、すぐに太政官制度に移行しています。王政復古時点では、総裁には、三条実美、議定には岩倉具視がなっていました。

大政奉還と王政復古は立場の違うものが出した結論

従って、大政奉還は徳川将軍が出したものであり、それに対して王政復古は、倒幕を狙った薩摩、長州を中心として出されたもので、明らかに立場の違いがあるのです。

大政奉還の狙いは何だったのか

第2回長州征伐を失敗した徳川幕府は、威信を失い、存続の危機に瀕していました。特に、第2次長州征伐を将軍後見職として主導し、将軍家茂の死去によって15代徳川将軍になっていた徳川慶喜は、徳川幕府の存続の道を模索していたのです。その過程で、土佐藩の山内容堂から坂本龍馬が考えた船中八策(一部修正)を提案され、それに乗る形で大政奉還を行いました。

すなわち、大政奉還は、徳川将軍が中心となった雄藩(諸侯)会議を従来の老中に代わり設置することで、自身の地位と権力を維持しようというものでした。

船中八策とは何だったのか

坂本龍馬は、土佐から京都に向かう船の中で、船中八策という新しい政治綱領を作成し、後藤象二郎に示しました。後藤象二郎は、この船中八策を山内容堂に渡し、容堂から徳川慶喜に提案されたのです。

この船中八策には、大政奉還をして、新たな議会を設け、政治機構の改革、条約改正、憲法制定、陸海軍の創設、通貨政策などが示されていました。龍馬は、議会に関して、将軍職を廃止して、広く選挙で行うこととしていたのです。しかし、山内容堂はこの部分を伏せて将軍を残し、議長として将軍が残った形で提案したために、徳川慶喜は同意し、大政奉還に踏み切ったと言われています。

徳川慶喜は大政奉還で何を狙ったのか

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徳川慶喜は、徳川将軍家の存続を第一に考えており、老中は解体しても将軍は残って、実権を維持しようとしていたのです。この慶喜の大政奉還には、薩摩の国父と名乗った島津久光や家老の小松帯刀などは、賛成していました。しかし、岩倉具視などと新しい政府の樹立を目指し、倒幕を目指していた西郷、大久保らは大変反発したと言われています。

徳川慶喜が追い込まれた背景

徳川(一橋)慶喜は、14代将軍の徳川家茂の元で、将軍後見職として実権を握り、第2次長州征伐を強引に進め、敗れてしまいました。その背景には、徳川慶喜を会津の松平容保とともに支えていた薩摩の裏切りがあったのです。

薩摩は、慶喜の独断を嫌い、日本の将来よりも徳川家を守る姿勢に見切りをつけていました。そのため、坂本龍馬の仲介によってそれまでお互い憎しみ合っていた長州と手を握り、薩長同盟を結んでいたのです。財政的に苦しくなっていた長州のために、西郷は、薩摩名義で軍艦、大砲、銃器などを購入し、それを長州に提供しました。その近代的装備によって、高杉晋作を中心とした長州軍は 悪府軍を破ったのです。西郷は、第2次長州征伐には参加しませんでした。

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