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日本陸軍最後の大攻勢「大陸打通作戦」とは?歴史系ライターがわかりやすく解説

大日本帝国の敗勢が徐々に明らかになっていた第二次世界大戦末期、激戦が繰り広げられた太平洋とまったく違う場所で、日本陸軍は最後の大攻勢を掛けようとしていました。それが「大陸打通作戦」です。文字通り中国大陸を南北に縦断し、敵主力や飛行場などを殲滅しようとする野心的な作戦でした。しかし8ヶ月かけてやっと作戦の目的を完遂するものの、その作戦はまったく無意味なものとなっていたのです。日本はなぜそのような無意味な作戦を断行したのか?その経緯をわかりやすく解説していきましょう。

目標は中国大陸にあるアメリカ航空基地

image by PIXTA / 2952177

昭和19年4月から12月にかけて実施された「大陸打通作戦」は正式名称を「一号作戦」といって、河南省から南寧へ及ぶ2400キロという気の遠くなる距離を踏破した戦いでした。これは北海道北端にある稚内~南国の奄美大島までの距離と同じで、この距離を戦いながら進んでいくわけです。なぜそんな無謀な作戦が立案されたのか?作戦発動までのあらましを見ていきましょう。

攻勢限界点を迎えていた日本軍

昭和6年に始まった満州事変以来、日本軍は足かけ10数年にわたって戦い続けていました。昭和12年に中国との戦争が始まり、昭和16年に太平洋戦争が勃発。緒戦こそ相次ぐ勝利に沸いた日本軍でしたが、次第に連合国軍の圧倒的な武力と物量に押されて戦線の縮小を余儀なくされていきます。

昭和18年初頭のガダルカナル島撤退を皮切りに、ソロモン諸島は維持できなくなり、タラワ島・マキン島を失陥し、ニューギニアでも日本軍は惨敗を喫しました。

昭和19年に入ると加速度的に戦況は悪化の一途を辿ります。クェゼリン島の日本軍が玉砕し、トラック島空襲では多くの日本艦船が海の藻屑となりました。またインドのインパール攻略を目指した大部隊も攻撃が頓挫して進めなくなってしまいました。

まるで膨らんだ風船が萎んていくかのように、日本はついに【攻勢限界点】を迎え、ひたすら守勢に回ることとなったのです。アメリカの巨大な攻勢の刃は確実に日本列島へと向かっていました。

膠着状態となっていた中国戦線

いっぽう中国での日本軍(支那派遣軍)はどうだったのでしょう。昭和12年に始まった日中戦争は、緒戦こそ南京や武漢といった重要な都市を次々と占領していきますが、中国大陸はあまりに広すぎ、100万の日本軍といえど「点と線」を確保するだけで精いっぱいの状況になっていました。

また蒋介石率いる国民党軍だけでなく、毛沢東の八路軍(共産党軍)が共同して日本軍と対峙するようになったため、日本軍はますます苦戦することになりました。

日本軍は局地的に攻勢作戦を展開するものの、まったく戦局の打開には繋がりません。それだけでなく太平洋戦域の戦況悪化に伴って精強な部隊が次々に抽出されていき、中国大陸の日本軍はますます弱体化していたのです。

「このままでは、じり貧になる。」そんな焦りが日本側高官の間に蔓延していました。

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明石則実