室町時代戦国時代日本の歴史

世界遺産「姫路城」はどんな歴史を歩んできた?わかりやすく解説

世界的にも有名な遺産として知られている姫路城。姫路城は戦国時代から今まで姫路のシンボルとして機能していくことになります。 しかし、そんな姫路城がどのような歴史を歩んで行ったのかということは知らない人も多いのでは無いでしょうか? 今回はそんな姫路城の歴史について見ていきたいと思います!

姫路城の始まり

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姫路城は改修、増築を経て今の形に至りますが、基礎となる姫路城は1346年赤松貞範が築いたと言われています。姫山に砦が築かれ13年後の出来事です。

赤松氏は播磨を本拠地に置いていた名門守護。後醍醐天皇が挙兵したときには後醍醐天皇側として戦い、足利尊氏が挙兵した時にはその軍勢の一員として活躍しました。

その結果赤松氏は四職と呼ばれる地位につける名門守護大名へと変貌を遂げることになります。

播磨を支配することになった赤松氏。播磨に築かれた姫路城には赤松貞範が入り、初期の姫路城の基礎を打ち立てます。その後姫路城は赤松氏の家臣小寺氏が入り、以後小寺氏が城主として入ることになりました。

戦乱に入る播磨と姫路

1441年、嘉吉の乱で赤松氏が断絶し山名氏が播磨守護に。しかし、1467年の応仁の乱で再興した赤松氏の赤松政則が播磨国を取り返し、その後はまた小寺氏が姫路城主を務めます。

しかし時は戦国時代。赤松氏は浦上氏などの下克上や近隣諸国が攻め始めていくようになると徐々に弱体化していくことになります。

その後姫路城は1545年に小寺氏の家臣であった黒田重隆によって治められることになりました。この黒田重隆の時代に入ると姫路城は拡張工事が行われていくようになり、現在の姫路城の基礎が作られたいくようになったのです。

しかし、1560年に織田信長が台頭し始めると播磨国そのものが大きく揺るがされる事態に陥ることになるのでした。

お菊の呪い

姫路城の上山里丸と呼ばれる広場にあるお菊井戸。この井戸は代々姫路周辺で伝えられている播州皿屋敷の舞台となった井戸だといわれています。

時は今から大体500年前。姫路城の城主であった小寺則職の補佐役であった青山鉄山が城主を見限って自分が姫路城の城主になるために城の乗っ取りを計画。

これに気づいた小寺氏の家臣である衣笠元信は、自分が妾として娶っていたお菊を青山家に女中として送り込み城主乗っ取りの陰謀を暴こうとします。

しかし、家臣の計画も虚しく、城の乗っ取りが成功。お菊は懸命に元信に対して情報を送るのですが、ついに計画がきずかれることになります。

見つけた家臣はお菊の美貌に惚れて結婚を迫るのですが、お菊はこれを拒否。これにブチギレた家臣は青山家の家宝であった皿を隠してそれをお菊の不始末として井戸に投げ殺してしまいました。

しかし、お菊が送ってくれた情報のもとで元信は姫路城を再奪還。お菊はお菊大明神として慕われる存在となります。

しかし、お菊が投げ殺されてしまった井戸では殺された後からというもの毎晩「1枚、2枚…」と皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになったというのです。

黒田官兵衛の時代

黒田重隆の息子である黒田官兵衛(本名は黒田孝高)の時代に入ると赤松氏から独立して、赤松氏との抗争に明け暮れることになります。姫路城は黒田官兵衛が治めることになるのですが、この時代に入ると織田信長が近畿地方にも進出。播磨にもその影響力を伸ばそうとしていたのです。

その一方で中国地方は毛利元就によって完全に掌握。小寺氏を始め殆どの播磨の戦国大名は毛利氏につくか織田氏につくかで迷うことになります。

小寺氏は最初は毛利氏につくことになっていましたが、黒田官兵衛の助言によって織田氏につくことに。しかし、気が変わったのか黒田官兵衛の交渉を横目に小寺氏は毛利氏についたのです。

結果は織田氏が播磨のほとんどを掌握して小寺氏は没落。黒田官兵衛はというと織田氏の家臣として羽柴秀吉の家臣として軍師として参加することになるのです。

秀吉が城主に

1576年に対毛利氏のために西国方面の総指揮を命じられた羽柴秀吉は最前線基地として機能していた播磨に進出することになりここを中心に播磨の勢力を固めていくことになります。

1580年に入ると最後の最後まで織田氏に反抗していた別所氏の三木城が落城。

播磨がはついに織田氏によって平定することになりました。黒田官兵衛はその播磨平定をみると秀吉に対して播磨の本拠地を姫路城にすれば良いと進言して自ら本拠地として使用していた姫路城を献上。官兵衛は姫路城の南西に位置する国府山城に移り、名実ともに秀吉が姫路城の城主となるのです。

城主となった秀吉は一年かけて姫路城を大改築。安土城から始まっていた天守閣を造営することになり、三層の天守を建築しこの時正式に姫路城に改名することになりました。

これにあわせて城の周辺もリニューアル。姫路城の南部に大規模な城下町を形成させるために姫路城周辺に住んでいた農民たちを半ば強制的に姫路城周辺に住まわせてさらには姫路の北を走っていた山陽道無理やり曲げて城南の城下町を通るようにも改めて姫路を播磨国の中心地となるように整備しました。

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