幕末日本の歴史江戸時代

「対馬藩」とは?600年以上にわたって対馬を支配した宗氏の歴史をわかりやすく解説

長崎県対馬は古来から中国や朝鮮半島の玄関口であり、重要な「海の道」でした。晴れた日には展望台から朝鮮半島も望めますし、現在でも韓国から多くの観光客が訪れる場所でもあります。対馬の歴史をひも解けば、600年以上にわたって対馬を支配した「宗氏」を外すことはできません。江戸時代以降は対馬藩(対馬府中藩)の藩主として君臨しますが、日本の対外政策の歴史を見ていく上で重要な役割を果たした一族です。今回は対馬の領主「宗氏」と「対馬藩」の歴史について解説していきましょう。

「宗氏」の歴史~元寇に至るまで~

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宗氏は古来から対馬にずっと土着していたわけではありません。宗氏と対馬の関係は意外に遅く、13世紀初め頃にようやく記録に現れてくるのです。やがて対馬に大きな被害をもたらしたモンゴルの襲来までを見ていきましょう。

国司に代わって対馬の実権を握る

宗氏はもともと「惟宗(これむね)」という姓を用いていました。惟宗は渡来人秦氏を祖先に持っており、大和朝廷の成立に大きく貢献したといいます。多くの秦氏は中央政権へ進出して惟宗を名乗りましたが、豊前国(現在の福岡県東部)に残った一族もいました。彼らは惟宗から一字を取って「宗」と姓を改め、九州の地に蟠踞したようですね。

異説もあり、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏のひとり平知盛には幼い男の子がいて、運よく九州へ逃れることができました。その子は現地の豪族少弐資頼に気に入られて大いに取り立てられることになりました。しかし姓が「平氏」のままでは具合が悪い。そこで乳母の姓をもらって「惟宗」から一字を取って宗知宗に改めたというものです。

しかし平氏起源説は確たる史料もなく、知宗じたいの存在も疑問視されていますね。やはり秦氏起源説のほうに信憑性があるようです。

平安時代における宗氏の活動は定かではありませんが、おそらく大宰府に仕える在庁官人もしくは武士だったのではないかとされています。宗氏初代とされている重尚は、先ほどの知宗と同一とされている人物で、たいへん武勇に優れていたといいますね。

ちなみに平安時代末期~鎌倉時代初めの対馬は、阿比留(あびる)氏という在庁官人が対馬を支配しており、大きな勢力を誇っていました。ところが増長したのか、密かに朝鮮と交易したことを大宰府に見咎めらるものの全く従わず、反抗する気配すら見せました。

そこで追討軍の大将として派遣されたのが宗重尚でした。1246年、軍船を連ねて対馬に上陸し、鶏知というところで阿比留氏を滅ぼしたのです。それに代わって重尚が対馬の守護代に収まりました。ここから宗氏の対馬支配が始まります。

元寇で大きな被害を受けた対馬

対馬守護代としてスタートした宗氏でしたが、間もなく最大のピンチが訪れました。元(モンゴル)・高麗連合軍が対馬へ侵攻してきたからです。

南宋を滅ぼして中国大陸を統一した元は、次に日本へ服属と朝貢を求めてきました。ところが政権トップの北条時宗はこれを拒否。怒った皇帝フビライによって日本遠征軍が編成されたのです。

1274年、4万ともいわれる大軍は、まず戦いの露払いとして対馬へ上陸してきました(文永の役)。宗氏当主は2代目の助国でしたが、通訳を介して上陸の目的を尋ねたところ、なんと元軍から大量の矢が飛んできました。これが返事だというわけです。

応戦態勢を整えた助国ら一族郎党は80騎という小勢で立ち向かいます。多くの敵兵を打ち倒し奮戦するものの、多勢に無勢。ついに囲まれた助国勢はまとめて討ち死してしまいました。守るべき者がいなくなった対馬は、元軍の暴虐と略奪の嵐に巻き込まれ、大変な被害を被ることとなったのです。この時に多くの者が奴隷として連れ去られたとも。

助国は討ち死する寸前に、対馬小太郎と右馬次郎という郎党を島から脱出させ、大宰府に急を知らせたといいます。また助国の嫡男盛明は、大宰府に出府しており無事でした。日本軍の善戦もあり、元軍は撤退途中に暴風雨に遭って壊滅。勝利を得ることができましたが、対馬に残された傷跡は深いものだったそうです。

1281年の弘安の役においても、対馬は元軍の侵攻を再度受けることになりました。この時も激しく抵抗した日本側は、敵将を幾人も倒しています。幸いなことに元軍はあまりの大軍のために二手に分かれていて、日本本土付近で合流する必要がありました。そのため対馬に長居はできなかったようです。

宗氏は一族がほぼ全滅するものの、盛明が生き残ったおかげで血統が絶えることはありませんでした。

「宗氏」の歴史~戦国争乱と朝鮮出兵~

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宗氏は対馬を実質支配する守護代でしたが、正式な対馬守護は少弐氏でした。そして主家として仰いだ少弐氏をバックアップするべく宗氏はアグレッシブに行動を開始します。「宗氏の野望」とはいったい何だったのでしょうか。

狙いは「博多」を支配すること

15世紀末、宗貞国は対馬南部の厳原(いずはら)に居を構え、そこが宗氏代々の居所となりました。ちょうどこの頃から宗氏は実力を持ち始めてきます。また室町幕府から正式に守護として任命され、島内の支配圏も確実に手に入れました。

対馬は平地が少ない地形で、耕作による自給自足がままならない島でした。そのため日本と朝鮮の中間にある対馬が貿易の窓口となったのです。朝鮮と【嘉吉条約】を結んだことにより、日本の武士でありながら朝鮮の代官という地位を得た宗氏は、貿易による利得を手に入れることができ、経済的にも豊かとなったのでした。

宗氏が絶頂を迎えつつあった頃、かつて主家だった少弐氏が没落して頼ってきました。そこで1469年、貞国は少弐頼忠を助けて九州へ出兵し、大宰府を奪還するべく大内軍と戦います。戦いに勝利した貞国は大いに頼忠を盛り立て、自らは博多を守ってその権益を手中にしました。

ところが博多の実質支配が貞国に握られていることに不満を持った頼忠は、貞国と不和となってしまいました。貞国も致し方なく対馬へ帰国。その後も北九州の地に拠点を確保するべく、宗氏は幾度も兵を率いて海を渡りました。しかし龍造寺氏によって少弐氏が滅ぼされ、大友氏や毛利氏といった戦国大名たちが博多を含む北九州の覇権を目論むようになると、もはや宗氏の出る幕はなくなりました。

再び対馬での逼塞を余儀なくされたのです。

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明石則実