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日本陸軍最後の大攻勢「大陸打通作戦」とは?歴史系ライターがわかりやすく解説

長沙の占領

第12軍によって洛陽が攻略された日、第2期作戦のために第11軍は岳州に集結。支那派遣軍司令官岡村中将も近くの漢口に司令部を移しました。日本軍の総兵力は36万人。第1期作戦とは比べ物にならないほどの大兵力でした。作戦の目的は南部に多く散らばっている敵飛行場の覆滅にあったのです。

まず最初の目標は長沙でした。ここにはアメリカ空軍の大規模な航空基地があり、国民党軍の主力も展開していると思われたからでした。5月27~28日にかけて第2期攻勢といえる【湘桂作戦が】始まりました。

しかし国民党軍は日本軍の接近を事前に察知したため、まともに組み合おうとしませんでした。日本軍の進撃と同時に撤退を開始していたからです。これには各師団の将兵たちも拍子抜けする有様。

進撃途上にある街で国民党軍は抵抗を続けますが、いっこうに主力を温存したまま立ち向かってくる様子はありません。やがて6月に入ると長雨が到来し、道は泥濘と化して日本軍将兵たちを苦しめました。また食糧や弾薬の補給すら滞るようになり、この状態は6月下旬まで続くことになります。

6月18日、日本軍は長沙を占領。ここまで難なく進撃を続けてきた日本軍将兵の間に楽観の空気が流れ始めました。しかし、その緩んだ空気は衡陽攻防戦で吹き飛んでしまうのです。

最も激しい戦いとなった衡陽攻防戦

長沙を占領後、第11軍はすぐさま衡陽の攻略に取り掛かります。この周辺にも敵の航空基地があったためでした。6月26日、飛行場は難なく占領できたものの、衡陽市街への攻撃ははかばかしくありません。なぜなら第11軍司令官横山中将は第58師団を基幹とする部隊しか攻撃に当てなかったからです。衡陽は完全に要塞化され、蒋介石の死守命令を受けた4個師団が頑強に守っていました。

第58師団だけではまったく歯が立たず、次いで第116師団も加勢に駆け付けて突破を図りました。それでも敵陣地はびくともしません。また国民党軍には優勢な航空支援もあり、日本軍にとって劣勢なまま時間だけが過ぎていくことになりました。

補給がままならない日本軍は食糧や弾薬に不足をきたすようになり、その突破力は衰えていくばかり。7月15日に第二次総攻撃を掛けるも、一部の攻略のみに留まり、またしても攻撃は失敗に終わりました。多くの死傷者が続出し、次々に歴戦の部隊が壊滅の危機に瀕していったのです。

この事態を重く見た支那派遣軍は、戦力集中を図って局面を打開すべきだと考えました。第一線部隊の戦力を充実させ、さらに増援部隊も呼び寄せ、なけなしの重砲部隊も展開させます。

8月4日、ようやく第三次総攻撃が始まりました。しかし国民党軍の抵抗は変わらず頑強で、戦況はなかなか進展しません。日本軍将兵はどれだけ戦友が撃ち倒されてもひるまず、死体を乗り越えて突撃を繰り返します。ほんの10メートルほどの距離で手榴弾の投げ合いが始まり、双方入り乱れての肉弾戦が展開されました。

翌日には早くも日本軍の弾薬が欠乏して重砲が撃てなくなり、支援砲撃もままならなくなりました。砲兵の援護なしに突撃していた将兵たちは大きな損害を被りますが、何とか市街地の一角を確保することに成功したのです。

すると8月7日、なおも敵の頑強な抵抗は続きますが、国民党軍側の前線に変化が見られます。敵兵が少人数の固まりとなって投降してきたのです。

「よし、敵は戦意を無くしつつある。もう一息だ!」

なおも攻撃が続行され、ようやく翌日になって国民党軍の軍司令官が降伏してきました。それ以後、投降してくる者が続出したといいます。攻撃開始から40日以上が経過して、ようやく衡陽は占領されたのです。

日本軍の損害は実に2万人近くにのぼり、最大の激戦はこうして幕を下ろしました。

追撃戦に移行し、ついに大陸打通作戦を完遂

衡陽攻防戦以降は完全な追撃戦へと移行していきました。国民党軍はすでに戦意をなくして退避行動に移っており、日本軍はそれを追って再び進軍を開始するのです。

衡陽攻防戦で大きな損害を受けた第11軍は休養を余儀なくされ、8月下旬、兵力を補充した上で新設された第6方面軍の指揮下に入ります。11月になって第11軍は、桂林柳州を同時に攻略し、所在の飛行場も占領しました。しかしこの頃にはアメリカ航空部隊もさらに内陸へと避退しており、もはや飛行場の占領は無意味なものでしかなかったのです。

第6方面軍麾下の2個師団が南寧を占領し、長きにわたった大陸打通作戦が完遂されました。昭和20年に入って以降も一部の作戦は続行されますが、すでに中国大陸での戦闘は副次的なものでしかなく、戦いの焦点は日本本土へ移っていたのです。

兵士たちに苦痛を強いた徒歩行軍

2400キロという途方もない長距離を移動した日本軍ですが、ほとんどの将兵たちは徒歩でした。当時の世界を見渡しても完全に機械化された軍隊というのはアメリカ軍だけでしたし、歩くのが当たり前だったといえるでしょう。

30~40kgの背嚢を背負った完全装備で、1日に30キロ歩くだけでも大変なこと。ましてや連日のように戦闘行為が伴うような緊張状態になっていれば、心身ともに疲弊するのは当然のことです。ましてや補給が滞ってしまえば飢餓にも襲われます。

多くの日本兵が食糧も弾薬もないまま行軍せざるを得ませんでした。そこに日本軍という組織の弊害があると思うのです。「補給は二の次」といった考え方は、いたずらに人命を軽視し、人間性を失わせ、せっかくの戦力を削り取ります。日本軍の場合は「輜重輸卒が兵隊ならば、 蝶やとんぼも鳥のうち」と揶揄されるように、戦闘行為のみ重視して補給に関して顧みられなかったことが知られていますね。

食べるものがない日本兵たちはどうするのか?これはもう現地住民から奪って得るしかありません。「現地徴発」という名の略奪行為ですね。その現実は多くの悲劇を生むことになるのは当然の帰結でしょう。

「中国国民党の圧政から人民を救う」べく戦争を始めた日本が、今度は中国人民を虐げる存在になるとは、呆れることを通り越して滑稽ですらあります。こういった事例は枚挙に暇がありません。フィリピン、ニューギニア、ビルマなど至るところで繰り広げられた事実なのです。

それが「戦争」ということを忘れてはならないでしょう。

「大陸打通作戦」は果たして無意味だったのか?

image by PIXTA / 31354057

この大作戦が行われていた真っ最中の7月、サイパン島が陥落してB29の航空基地が完成しました。いくら中国の航空基地を叩いたところでまったく無意味なわけですが、大本営の服部大佐はなおも作戦の続行を主張し続けたそうです。また日本軍の戦死者10万人のうち、純粋に戦いで亡くなったのは約2万人。残りの8割の兵士は飢餓や疫病に倒れていきました。それだけの損害を出してまで戦う意義が果たしてあったのでしょうか?疑問は深まるばかりですね。

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明石則実