幕末日本の歴史江戸時代

幕末に広まった「尊王攘夷」はどんな思想?わかりやすく解説!

いろんな藩や武士たちが登場していき活躍していった幕末の時代。そんな時代の一つの用語として知られていくようになるのが尊王攘夷でした。 彼らは孝明天皇に勅許を得られなかったこともあり、西洋人を襲ったりしていくことになるのです。 今日はそんな尊王攘夷について詳しく解説していきたいと思います。

そもそも尊王攘夷って何?

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尊王攘夷とは君主を尊敬するの尊王思想と、外国人を撃退する攘夷思想が結びついたものです。ようするに「天皇を尊んで外国人を追い払おうぜ」というのがこの教えの根幹にあるのですね。

ちなみにこの尊王攘夷は幕末の頃に生まれた言葉ではなく、古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊んで領内へ侵入する夷狄(中華思想における異民族)を打ち払うという意味で使われた言葉で国学者が輸入した言葉でした。

そしてこの尊王攘夷は幕末の一種のアイデンティティーとして普及していくようになります。

尊王攘夷が発展した理由

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尊王攘夷という言葉自体は古代中国の時代から存在していましたが、そんな尊王攘夷が一般的に使われるようになるのが幕末の頃でした。

それ以前の尊王攘夷はどんなものだったのでしょうか?

まずはそんな尊王攘夷が日本で広まるきっかけについて見ていきましょう。

尊王論

尊王攘夷の一部である尊王論は18世紀半ば以降に主張されるようになっていきました。

尊王論が生まれたのは今の茨城県にあった水戸藩。

水戸黄門で有名な徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂業を中心におこった初期の水戸学は、元々の朱子学にさらに国学や神道を総合して天皇を尊んでいく学問が生まれていくようになりました。

そして幕末に差し掛かっていくようになると水戸学では藤田幽谷が尊王が幕府の権威を維持するために重要であると説いていくようになり、幽谷の弟子である会沢安は『新論』にて、天皇を中心とする政治体制を築いていくべきだと主張。

この考えは幽谷の子で『弘道館記述義』を説いた藤田東湖や徳川斉昭も尊王攘夷運動に強い影響を与えていくようになります。

また垂加神道を学んだ竹内式部は京都で若い公家たちに『日本書紀』などを講義して幕府の考えを批判しながら尊王論を説いて追放されてしまう宝暦事件が起こったり、兵法家の山県大弐が著書である『柳子新論』にて幕政を批判して尊王論を説いたことで処刑された明和事件などの事件が起こっていくようになりました。

このほかにも今の京阪三条駅に銅像がある高山彦九郎や、天皇陵を調査してまとめた蒲生君平、『日本外史』などの著作で日本史を編纂しながら尊王思想を説いた頼山陽らが現れました。この三人は当時としては奇人として見られていたようでこの三人のことを寛政の三奇人と呼びます。この人たちはのちのちの尊王攘夷運動に影響を与えていくことになりました。

攘夷運動

上にも書いた通り、江戸時代には水戸藩と中心として水戸学が盛んになって広まっていくことになります。

水戸学は『大日本史』を編纂する傍らで生まれた学問でしたが、やがて水戸藩に限らず全国の藩校での教育に取り入れられていくようになっていき。水戸学の教えは幕末には全国の武士に広く受け入れられることになります。

そんな水戸学でしたが、この水戸学で説かれたのがいわゆる外国排斥の考え。水戸学では「欧米諸国は卑しむべき夷人であるため、日本列島にその力が及んだ場合直ちに打ち払って排除すべき」の教えがあり、キリスト教の排斥も相まって攘夷論が確立しました。

こうした攘夷論は幕府にも受け入れられていくようになり、異国船打払令が制定されることになります。

尊王論と攘夷論の合体

尊王論と攘夷論が合体した最大の理由は1853年の黒船来航にありました。

黒船で日本にやってきたペリーは日本に開国を要求。初めて見た蒸気船に驚いた幕府は1854年に日本とアメリカが日米和親条約を締結。締結した結果これまで続けてきた鎖国が終わり下田と箱館の港を開港して外国との交流が生まれました。

また、締結から四年後にはハリスと日米修好通商条約を締結。この条約によって日本は外国との貿易を行っていくようになります。

しかし、日米修好通商条約は日本にとって不平等条約であり、貴重な金や銀における変換比率の国内・国外差の問題から流出。さらに外国製品の輸入によって日本製品が売れ行きが低下。日本の産業に大打撃となってしまい、これによって各地で一揆や打ちこわしが起こりました。

生活が苦しくなった原因は日米修好通商条約の締結にありそのため人々は外国を嫌うようになりこれが攘夷論をより強めることになります。

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