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無謀な作戦だった「インパール作戦」とは?現代でも見られるこの作戦で心がける事とは

世界戦史上最も無謀な作戦として知られるインパール作戦。それは補給が不可能なことが事前にわかっていながら強行され、結果多くの餓死者や戦病者を出しました。しかしインパール作戦は過去の過ぎ去ったものではなく、現代においても、社会において到るところで見られます。ここではインパール作戦を振り返りながら、現代のインパール作戦からどう脱出するのかを考えてみます。

太平洋戦争におけるインパール作戦とは

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インパール作戦とは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)3月から7月の間、大日本帝国陸軍によって行われたイギリス領インド帝国の北東部に位置する都市であるインパールを攻略するための作戦でした。ほとんどの将校によって前線部隊への補給が不可能なことが指摘され、反対の声が挙がっていましたがそれでも強行され、結果92,000人のうち26,000人が戦死、30,000人以上が戦病に至りました。インパール作戦は日本陸軍史上最悪の作戦と言われています。

インパール作戦の背景にある日中戦争

Map showing the extent of Japanese control in 1940
パブリック・ドメイン, Link

インパール作戦は、大日本帝国陸軍の軍事戦略に基づいて行われた日中戦争が背景となっています。陸軍は海軍とは異なり、中国を主要敵国にしていました。当時の中国は中華民国であり、蒋介石政権による国民政府でした。中国は日本に対して劣勢ではあったものの、連合軍から戦略物資の支援を受け続けながら徹底抗戦を続けていました。そのため日本側は100万人以上を中国大陸に投入することになり、戦況は一向に好転することはありませんでした。

そこで陸軍はなんとしても日中戦争を有利に進めるために、連合軍による中国への支援ルートの遮断に乗り出しました。イギリス領ビルマを占領することで中国を戦略物資支援から切り離し、孤立無援にする計画だったのです。1942年(昭和17年)に日本軍はイギリス軍をビルマから駆逐して占領することに成功しました。

連合軍による中国との連絡路のビルマの奪回

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By US official photographer – This is photograph CBI 35851 from the collections of the Imperial War Museums (collection no. 4700-06) , パブリック・ドメイン, Link

イギリス領ビルマを制圧した日本軍でしたが、1944年(昭和19年)に戦況が変わってしまいました。連合軍側によりビルマ上空の制空権の争いに日本軍は持ち込まれたのです。このときに日本軍はエースパイロットの多くが負傷や軍からの転属命令により日本に帰国せざるを得なくなるなどで、航空優勢を保つことが出来なくなりました。連合軍側はビルマの制空権を奪うことで、空輸によりビルマ上空経由での補給路を開拓したのです。地上ではビルマ北部に精鋭部隊を潜り込ませ、上空から投下された戦略物資の中国への新たな補給ルートを開拓し始めました。これによって日本がビルマを占領した意味がなくなってしまったのです。

補給を無視したインパール前線基地攻略

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By Official photographer of No.9 Army Film and Photographic Unit. – This is photograph IND 3714 from the collections of the Imperial War Museums (collection no. 4700-38) , パブリック・ドメイン, Link

ビルマの制空権を奪われ、ビルマの征服が無意味になってしまった日本の陸軍。こうした状況下でイギリスの最前線基地のインパールを攻略することは、中国への連合国による補給路を断つ上で欠かせないものになりました。しかしインパールへ侵攻するには、チンドウィン川という巨大な河川やアラカン山脈といった標高3,000メートルを超える規模の山脈を越える必要があったのです。そうした中で前線部隊へ弾薬や食料などの物資を補給することは不可能な状況だったことがどの将校にも一目瞭然でした。補給を無視したこうした作戦に対してほとんどの将校が反対する中、牟田口廉也(むたぐちれんや)中将により強硬に進められ、結果として多くの餓死者及び疲労とマラリア感染者を出してしまったのです。

牟田口中将にとってインパール作戦はリスクなき冒険だった

インパール作戦においては、補給担当の将校たちが何とか補給方法に関する手立てをいろいろ探りましたが、調べれば調べるほど「補給は不可能」といった結論しか出てきませんでした。最前線への補給路は険しい山道ゆえ、とても車両が通行できるレベルではなく、徒歩による行軍しかできない中、牟田口中将は「ジンギスカン作戦」を打ち出しました。すなわち戦略物資の運搬を牛にやらせ、途中兵士が空腹になったらその牛を食べれば良いというものです。背中に物資を背負った牛に山道を歩かせたらどうなるかは、他の将校たちからすれば明白でしたが、牟田口中将の耳に響くことはありませんでした。

結果、チンドウイン川では牛の半分以上が溺死し、残りの牛も山越えはかなわず、物資毎、消失してしまいました。この事実を目の当たりにしても牟田口中将は、「日本人はもともと農耕民族で草食動物である」と豪語し、補給不能のまま行軍を命令したのです。現実を明らかにすればするほどそれに逆らう夢を押し進める。これは一体どのような心理なのでしょうか。これはすなわち、牟田口中将にとってインパール作戦はリスクなき冒険だったのです。このリスクなき冒険とは一体どういうことでしょうか。それは失敗しても自分に痛みを感じることがないため、冒険の無謀さを実感することができず、むしろ自分の夢を阻害するものとして現実を敵視してしまう傾向に陥ってしまうのです。

なんと牟田口中将は前線部隊から300~400km離れた安全地帯で陣頭指揮を取っていました。そこには食料が保証されており、むしろ飽食の状態で陣頭指揮を取っていたのです。

現代におけるインパール作戦とは

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インパール作戦は何も過去の太平洋戦争に起こったことだけに限りません。現代においても形を変えたインパール作戦というものは無数に存在するのです。例えば企業経営における過剰投資、受注案件の絶対達成不可能な短納期など、社会の到るところでインパール作戦は見られます。形を変えた現代のインパール作戦とは、現実的に考えた場合、明らかに破滅の方向へ向かうのにも関わらず、机上の空論なる夢を強行に推し進めてしまうことなのです。

過去の戦争より見ることができる現代のインパール作戦の特徴

現代のインパール作戦には、過去のインパール作戦で見られたような特徴が含まれています。1つめに挙げられるのは「根拠のない一発逆転の発想に基づいている」ことです。このまま進めば泥沼になることが明らかになってしまう今、一発逆転後の世界を絵に描いてその喜びに浸ることが特徴といえるでしょう。過去の戦争においては牟田口中将が、インパール攻略後に日中戦争において日本軍が巻き返しを図る夢を追っています。2つめに挙げられるのは、「論理的に推し進めるのではなく、事態の好転を祈る傾向にある」ことです。牟田口中将は攻略先に神社を建立し、日夜日本軍の勝利を祈り続けたといわれています。

3つめに挙げられるのは、「どれほど現実を突きつけられても強行突破される」ことです。実際に武器弾薬が底を尽き、兵士が飢えと疲労で戦闘どころではない状況を前に、大和魂で行軍することを求めたのも、いかなる現実も中止させる力を持たなかったことになります。そしてこれらの3つの特徴を備えたインパール作戦の根底となっているのは、リスクなき冒険への熱情でしょう。すなわち意思決定側が、作戦遂行時に何ら時間的、肉体的拘束を伴うことなく、作戦実行時の現場で生まれる苦痛や犠牲とは一切無関係な状況にある中でひたすら冒険に情を注ぐのです。

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