敵飛行場を占領せよ
U.S. Army Military History Institute – http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-C-ChinaD/ [1], パブリック・ドメイン, リンクによる
そんなさなか、大本営陸軍作戦課長だった服部卓四郎大佐は乾坤一擲の大作戦を立案します。それは中国大陸中央部にある河南省から敵軍を撃滅しつつ、インドシナ半島の付け根まで進攻するというものでした。行軍の難しさや補給の不安を根拠に反対する者が多くいる中、服部は一喝します。
「大陸に散在している敵飛行場から日本が爆撃されたらどうなるか?それこそ国民に申し訳が立たぬ。重要拠点を占領しつつ敵飛行場を覆滅せしめて憂いを払い、しかるに南方資源を輸送するための鉄道路も確保できる。」
しかし服部は陸軍大学校をトップで卒業した俊英であるにもかかわらず、現実を無視した机上の理論を語ることが多々ありました。悲惨を極めたガダルカナル島の戦いも、彼が作戦指導したものだったのです。
ましてや服部は東条英機首相の大のお気に入り。強く主張されれば誰も文句を言う者はありません。この作戦によって得られる効果は次の通りだとされました。
※中国大陸にあるアメリカの飛行場を占領することで、日本本土が空襲に遭うことはなくなる。
※インドシナ半島からの鉄道ルートを確保し、南方資源を陸路で輸送できる。
※大勝利を収めることで蒋介石の戦意を挫くことになる。
※勝利のニュースは国民に勇気を与え、戦意高揚に役立つ。
こうした中、首相だけでなく陸軍大臣、参謀総長も兼任していた東条英機から作戦の認可が下りました。服部が立案した作戦は、兵力50万、トラック1万2千台、戦車800両、火砲1500門という大規模なもので、大陸に展開していた日本軍全体の約8割にあたります。
そして作戦開始は昭和19年4月とされたのです。
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順調な滑り出しとなった【第1期京漢作戦】
昭和19年4月17日、作戦は発動されて8ヶ月に及ぶ行軍が始まりました。作戦は第1期と第2期に分けられ、中国大陸を北から南へと縦断していくのです。圧倒的な数に勝る国民党軍を相手に相当な苦戦が予想されましたが、案に相違して順調な滑り出しを見せていきます。
河南会戦で日本軍が圧勝
作戦発起にあたって、まず目の前に横たわる大河(黄河)を渡河せねばなりません。国民党軍の砲撃で京漢鉄道の橋は破壊されていましたが、全長3キロに及ぶ橋は、鉄道第6連隊の昼夜にわたる突貫工事でようやく修復が完了したばかりでした。
4月17日、作戦の主力となる第12軍は無事に黄河を渡り、迎え撃つ敵陣地を難なく突破していきます。順調に進撃した第12軍は、早くも4月末に重要拠点である許昌の攻略に取り掛かり、所在の国民党軍を蹴散らしました。わずか2日で許昌を攻略すると、北方から救援に駆け付けた国民党軍の援軍を撃破したのです。
幸先よく作戦をスタートさせた日本軍は、次に洛陽の攻略に取り掛かるのでした。
この作戦における国民党軍の兵力は250~300万人いました。日本軍のおよそ5倍以上という圧倒的兵力にもかかわらず、なぜ易々と日本軍の突破を許してしまったのでしょう?
たしかにアメリカの援助によって兵器や物資の供給を受けていたものの、その量は到底足りないものがありました。新式師団として組織された部隊も圧倒的に数が少なく、兵員が多いとはいえ質がまったく伴っていなかったのです。
多くの兵は旧式銃しか持っておらず、銃すら携行していない兵士もいました。また戦車も飛行機もほとんど持っておらず、ゲリラや民兵程度の装備しか持ち合わせていませんでした。兵士の士気も低く逃亡兵も跡を絶たなかったといいますから、そのレベルでは日本軍の敵ではありません。
洛陽攻防戦
かつての中国王朝の首都洛陽へ進撃してきた第12軍は、第63師団に洛陽の攻略を命じます。しかし洛陽は巨大な都城。兵力不足も手伝って攻略はなかなか進展しません。
そこで第12軍主力をもって総攻撃を掛けることになり、5月23日、北方面と東北方面の2方向から一斉に進撃したのです。翌日には主要拠点を制圧し、敵に対して降伏勧告が行われましたが、国民党軍はこれを拒否、反撃し続けます。攻撃再開後の5月25日に洛陽はついに陥落し、所在の国民党軍は司令官が戦死。守備隊も壊滅しました。
また洛陽を攻略すると同時に、日本軍第27師団が北上してきた第11軍と合流を果たし、京漢鉄道沿線を確保します。これによって南北の連絡路を確保することができ、今までアメリカ空軍の空襲で途絶しがちだった補給を円滑に行えるようになったのです。
まさにここまでは日本軍の圧勝に終わりました。国民党軍の戦死病者4万8千人に対し、日本軍の損害は3千人程度に過ぎず、いかに作戦が順調に進んでいたのかがわかります。
国民党軍の頑強な抵抗に遭う【第2期湘桂作戦】
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第2期作戦の主役は日本軍第11軍でした。あたかも第12軍からバトンタッチを受けるかのように、長沙~桂林~南寧とひたすら南へと進撃していきます。しかし行く手に待っていたのは国民党軍の頑強な抵抗でした。