大正日本の歴史明治

高い危機管理能力を見せた財政家「高橋是清」を元予備校講師がわかりやすく解説

総理大臣を経験しながら、経済危機のたびに大蔵大臣を率いて日本の経済を支え続けた男がいました。彼の名は高橋是清。丸みのある独特の風貌から「ダルマさん」とよばれた高橋の人生は、まさに「七転び八起き」の人生でした。ある時はだまされて奴隷になり、ある時は投資に失敗して無一文。また、ある時は思いもかけず総理大臣になるなど、まるでジェットコースターのような人生でした。後半生は財政のプロとして日本経済が危機に陥るたびに適切な処置をして経済を回復させます。今回は高橋是清について元予備校講師がわかりやすく解説します。

悪戦苦闘した若き日の高橋是清

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幕末、江戸の幕府御用絵師の子として生まれた是清は幼いころに仙台藩士高橋家の養子に出されました。ヘボン塾で英語を学んだ後、アメリカに留学しますがあっせん人や留学先の家族に騙され、奴隷契約といってもよい年季奉公の契約にサインしてしまいます。この時身に着けた英語力は日本に帰国後も役立ちました。文部省や農商務省の官僚としても活躍した高橋でしたが、ペルーでの銀山開発事業に乗り出し失敗。無一文になってしまいます。

こんなはずじゃなかった!奴隷として働く米国留学

1854年、是清は幕府御用絵師の川村庄右衛門の子として生まれました。私生児だったため、間もなく仙台藩の足軽だった高橋家に養子に出されます。その後、是清は仙台藩の命により江戸のヘボン塾に通いました。

ヘボンはローマ字のヘボン式で有名な人物ですね。ヘボン塾ではヘボンが医学を、妻のクララが英語を教えます。ヘボン塾はのちの明治学院のもととなりました。

11歳でヘボン塾に入った高橋是清は2年間、英語を習得したのち藩命でアメリカにわたります。しかし、仲介したアメリカ人商人のユージン=ヴァン=リードが学費や渡航費用を着服したうえ、ホームステイ先のアメリカ人が是清をだまして別な家に年季奉公人として売り渡してしまいました。

そのため、是清はアメリカで奴隷同然で働かされます。こうした苦労を重ねる中で、是清は英会話と英文の読み書き能力を習得しました。

生きた英語を身に着け、日本での就職につなげる

1868年、是清はようやく日本に帰国します。帰国してみると、大政奉還や戊辰戦争によって是清を送り出してくれた仙台藩は賊軍とされ、是清を迎えるどころの騒ぎではありませんでした。そのため、帰国した是清は東京で自立せざるを得ません。

帰国の翌年、アメリカで知り合った森有礼の家に書生として寄宿します。同じころ、留学経験を活かして大学南校の教官となりましたが、放蕩生活の挙句、教員を辞めざるを得なくなりました。

その後、唐津藩の英語学校や官立東京英語学校、東京大学予備門の教員などをして生活の足しにします。1878年には、後の開成高校の前身である共立学校の校長も勤めました。正岡子規や秋山真之らを指導したことでも知られていますね。

官僚としての出世を捨て、ペルーの銀山事業に取り組むも失敗

是清は教員として活動するのと並行して政府の役人としても活動していました。1873年に文部省に入省。1881年には文部省や農商務省で御用掛となります。このときは、大学予備門の教員と兼任でした。

数年後には農商務省の権少書記官や工務局の商標登録所長となり順調に出世します。さらに、1887年には農商務省の特許局長にまでなりました。

1889年、36歳の時に是清は順調な官僚としての出世をやめ、南米のペルーに渡ります。ペルーの銀山開発の話が舞い込んだからでした。

ところが、いざ現地に到着してみるとその銀山はすでに銀を取りつくされ廃坑となったもの。是清は完全に騙されたわけですね。銀山に投資するために借金をしていた是清は家屋敷も売り払い、無一文となってしまいます。

明治後半から大正期にかけての活躍

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ペルーから帰国し、一時はホームレスにすらなっていた是清は日本銀行総裁となっていた川田小一郎の引き立てで日本銀行に入ります。是清は日本銀行副総裁として日露戦争の戦費調達を成功させました。大正時代には立憲政友会の一員として活動し、山本権兵衛内閣や原敬内閣の大蔵大臣となります。原の死によって急遽、総理大臣のイスが回ってきますが、政友会の混乱を鎮めることができず短期政権に終わってしまいました。その後、第二次護憲運動の一翼として政友会をけん引します。

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