太平洋戦争の背景
太平洋戦争に突入する前、日本は中華民国との間で日中戦争を戦っていました。日本はドイツ・イタリアと三国同盟を結成。中華民国を支援するアメリカ・イギリスに対抗しようとします。日ソ中立条約を結んで北方の安全を確保した日本は、資源確保のため欧米諸国が植民地としていた東南アジアに侵攻。アメリカは対日石油禁輸という切り札を切って日本の南進をとめようとしました。事態を打開しようと開かれた日米交渉は決裂。アメリカは最後通牒とも言えるハル=ノートを日本に突きつけます。
長引く日中戦争と援蒋ルート
1937年の盧溝橋事件から始まった日中戦争は、日本軍の目論見に反して長期化していました。蒋介石は首都の南京を脱出し、内陸部の重慶で抵抗を続けます。また、延安を本拠地としていた共産党の毛沢東も蒋介石と抗日民族統一戦線を結成し、日本の攻撃に対抗しました。
戦力に劣る中華民国を支援するため、アメリカ・イギリス・フランスなどは南方から支援物資を運びこみます。このルートを援蒋ルートといいました。
援蒋ルートは全部で3つ。ソ連から中国への支援、フランス領インドシナ(仏印)からのアメリカ・イギリス・フランスの支援、イギリス領インドやビルマからのアメリカ・イギリスの支援でした。
日本は日中戦争に勝利するため、援蒋ルートを遮断しようと考えます。そのため、日本は仏印に兵を進め援蒋ルート遮断をはかりました。
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三国同盟と日ソ中立条約
1939年、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まりました。1940年に入ると、ドイツ軍はイギリス・フランス軍に連戦連勝。フランスを降伏させます。日本ではドイツとの連携強化に消極的な米内内閣が倒され、第二次近衛内閣となっていました。
近衛内閣の外相松岡洋祐は、1940年9月、日独伊三国同盟の締結に踏み切ります。松岡は日増しに高まるアメリカの圧力に対抗するため、日独伊三国同盟にソ連を加えた四国で対抗しようと構想。ソ連との交渉を積極的に行いました。
1941年、ドイツの動きに備える必要を感じていたソ連のスターリンとの間で日ソ中立条約の締結に成功します。これで、日本は北方からソ連軍の侵攻を受ける可能性を減らすことができました。
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日本の南方進出と対日石油禁輸
日ソ中立条約により、北方の安全を確保した日本は援蒋ルートを遮断するためフランス領インドシナへの進駐を本格化させました。フランス降伏直後の1940年4月に、日本軍は北部仏印への進駐を果たしていましたが、1941年7月には南部仏印への進駐も実行。アメリカとの対立が決定的なものとなります。
日本の動きに対し、東南アジアに植民地を持つイギリス・オランダもアメリカに同調。日本に対する経済封鎖を行います。このアメリカ、イギリス、中国、オランダの4カ国による経済的包囲網を日本の新聞はABCD包囲陣と称して批判しました。
南部仏印進駐の翌月、アメリカは日本に対し石油の輸出を禁止する措置をとります。国内でほとんど石油を産出しない日本は、アメリカと交渉するか戦争に踏み切るかの二択を迫られました。
日米交渉とハル=ノート
第二次近衛内閣は、悪化する日米関係を改善するためアメリカとの交渉をおこないます。1941年4月から約50回にわたって日米交渉が行われました。日本の代表は駐米大使の野村吉三郎、アメリカの代表は国務長官のコーデル=ハルです。
日本は、アメリカが満州国を承認し、日中戦争終結について斡旋してくれるなら、中国や東南アジアから撤兵すると主張。アメリカは、満州国については別途協議するとして日本軍に直ちに中国や東南アジアから撤兵するよう求めました。
交渉妥結の見通しが立たない近衛内閣は総辞職。強硬派の東条英機が首相の座に着きます、
1941年11月、アメリカはハル=ノートとよばれる最後通牒を日本に発しました。ハル=ノートでアメリカは満州国の否認と中国大陸から撤兵を要求。これを受け入れられない東条内閣は開戦を決断します。
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