日本の歴史鎌倉時代

【鎌倉時代】鎌倉幕府が倒れるまで鎌倉将軍は存在していた!

鎌倉幕府というと、征夷大将軍・源頼朝が開いて息子の源頼家・源実朝と三代続きましたが、その後は執権の北条氏が政権を担っていたために、将軍はいないものだと勘違いしている人が多いですね。しかし室町幕府を開いた足利尊氏らに倒幕されるまで「鎌倉将軍」というものは存在していたのですよ。それはどんな人だったのかを紹介していきましょう。

鎌倉幕府ができるまで

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平安時代は摂政・関白が中心とした「摂関政治」でした。その中で武士というのは「朝廷を守る犬」という扱いで、藤原氏などの公家から蔑まれていたのでした。その中で桓武天皇の流れをくむ「平氏」と、清和天皇の流れをくむ「源氏」が台頭していき、「保元の乱」では政権争いの中で同族同士を戦わされていたのです。その後「平治の乱」で、平氏トップ・平清盛が源氏トップ・源義朝を討ったことで、朝廷で力をつけていったのですね。平氏は武士の棟梁となりましたが貴族化していき、武士の政権は源頼朝を待つことになったのですよ。

初代将軍・源頼朝ってどんな人?

「源頼朝」は、久安3年(1147)4月8日、平治の乱で討たれた源義朝の三男として尾張国熱田(現・名古屋市熱田区)の熱田神宮の大宮司・藤原季範の別邸(現・誓願寺)で生まれました。幼名は鬼武者、または鬼武丸といいます。

保元元年(1156)「保元の乱」では、父の「源義朝」は「平清盛」と共に後白河天皇の下につき、崇徳上皇の下についた祖父「源為義」と戦いました。戦後に源義朝は父親の助命を願いますが却下されて、父兄弟を斬首するということになってしまいます。平清盛も同様に叔父と甥を斬首するということになっていました。大河ドラマ「平清盛」では、涙なくして観られないシーンになっていますよ。

その4年後に院近臣同士の争いから起きた「平治の乱」で父の源義朝は利用されて、後白河上皇と一条天皇を内裏に幽閉するということをしてしまいます。逃げた上皇と天皇の下で平清盛は源氏征伐をしたのですね。源頼朝は13歳でその戦いに参加していました。

戦いに敗れ逃げましたが捕らえられてしまったのですよ。危うく斬首されるところを、平清盛の母・池禅尼の懇願で伊豆に流刑となったのですよ。大河ドラマのこのシーンは何度観ても泣けます。

源頼朝は旗揚げをする

流刑時代の史料はありませんが、わずかな側近と共に武芸をたしなみながら源氏の一族の弔いをしていたといいますね。配流地として蛭ヶ小島(ひるがこじま)が有名ですが実はわからないようですよ。そうして成人した源頼朝は伊豆の豪族の「北条時政」の娘の「北条政子」と結婚します。反対されて他に嫁がされそうになったところを奪いに行ったという有名な話は後の創作ではないかといわれているそうですよ。

そんな治承4年(1180)、後白河法皇の皇子の「以仁王」が平家追討を命ずる書状を全国の源氏に出しました。このページに出てくる後白河天皇・上皇・法皇は同じ人なので混乱しないでくださいね。今回天皇陛下が退位して平成上皇となられたのと同じで、天皇を退位して上皇になって出家して法皇となったわけですが、この方は朝廷の実権はそのまま持っていました。そのための政権争いに武士が巻き込まれたわけですね。

この時に源頼朝はおじさんの「源行家」から書状を見せられますが動きませんでした。以仁王の計画はまだ準備もできていない状態で出されたものでしたから、内部からの裏切りで失敗してしまったのですね。しかし平氏にとっては裏に源氏がいることがわかったために、源頼朝は身の危険を感じて挙兵することに決めたのですよ。

当時、関東の豪族達は未開拓だった関東の土地を開墾して土地を増やしていきましたが、荘園制度のために土地を奪われたり不当な税をとりたてられていたために不満がつのっていたのですよ。そこに源頼朝が立ったということで味方をするものが多かったのでした。

 

源頼朝が関東を平定する

治承4年(1180)8月17日伊豆国目代「山木兼隆」を、妻の北条政子の父である北条時政たちと共に討ち取ります。 19日 伊豆を制圧し味方を表明していた「三浦一族」と合流する前の8月23日に「石橋山の戦い」がおきました。味方300に対して敵は3000という圧倒的な戦力の差で、源頼朝たちは8月28日に真鶴岬(現在の岩海水浴場)から安房国(現・千葉県)へ脱出します。

そこで「上総広常」と「千葉常胤」という大豪族が味方となり9月13日に安房国を出立。10月2日に武蔵国に入ると葛西清重・足立遠元、一度は敵対した畠山重忠、河越重頼、江戸重長なども味方になり、10月6日に父・義朝と兄・義平と住んだことがある鎌倉へ入りました。そこに源氏の守り神である八幡を祀る鶴岡八幡宮を建立して、鎌倉幕府の拠点としたのですね。

平氏は源頼朝の反乱に対して「平維盛」を大将に追討の軍を送ってきました10月16日に源頼朝は軍を率いて対抗する豪族を制圧しながら黄瀬川に着きます。10月20日には甲斐を発して戦勝しながら参加した源氏一族の武田信義たちと「富士川の戦い」に勝利しました。この最中に異母弟の源範頼・源義経と感動の対面となったのですね。たぶん初対面だったと思います。

源頼朝は朝廷とかけひきをする

全国の源氏一族と、朝廷に不満をもつ豪族達が立ち上がり日本は大混乱の戦争が起きていました。その中で、養和元年(1181年)という年はターニングポイントとなりますよ。

〇閏2月4日に平清盛が熱病で世を去る。
〇6月「横田河原の戦い」で「木曾義仲」が勝利。信濃上野・越後に進出
〇近隣からの侵攻に対するために、7月頃、後白河法皇に平氏との和睦の書状を送るが平氏に拒否される
〇8月に北条政子が源頼家を出産

そして寿永2年(1183)の年も源頼朝にとって大切な年です。

〇7月、木曾義仲が京都から平氏を追い落とす
〇10月7日、木曾義仲の横暴に後白河法皇から上洛の命令が来るが却下
〇10月9日、平治の乱で剥奪した源頼朝の官位を復活
〇10月14日、東海道と東山道の所領の地域の年貢・官物を頼朝が進上する宣旨が出る
〇「寿永二年十月宣旨」で、反乱軍扱いだった武家政権の鎌倉政府が正式に公認される

閏10月15日に木曾義仲は平氏追討の戦いで敗北して京都に戻り源頼朝追討の宣旨を求めますが却下されます。11月に平氏と源義経に挟まれた木曾義仲は「法住寺合戦」で、後白河法皇を拘束して頼朝追討の宣旨を出させ、翌年1月「征東大将軍」に任ぜられたものの、20日に源範頼と義経との「粟津の戦い」で討ち死にしました。

 

源頼朝と平家滅亡

木曾義仲を討った源範頼を中心に西国へ平氏追討がはじまります。文治元年(1185年)1月に四国や九州の豪族にはの源範頼に従うようにと源頼朝が手紙を送りました。源義経は京都に代官として駐屯することを命じられていました。しかし源氏の軍は西にいくほど食糧不足や東国武士同士の不仲などが表面化していきました。

源義経は後白河法皇に奏上して許可をもらって、10日には数日かかるところを数時間で讃岐国屋島について、19日「屋島の戦い」で平家を海上へ追い落とした。とありますが、そうなると有名な「一の谷の戦い・鵯越の逆落とし」はどうなるのでしょうね。鵯越の逆落としを調べると一緒に戦いに出ているようなのですが。どうやら2つの説があるようです

26日、「平家物語」ではあまり出番がないものの実際は大将だったという範頼は、九州の武士から兵糧と船をもらい周防国から豊後国へと渡ることになります。そして3月24日の「壇ノ浦の戦い」で平家は滅亡し、4月27日に源頼朝は平宗盛を捕らえた功や、源義経との不仲からはじまった奥州の大豪族の藤原氏を滅亡させたことから従二位へ昇りました。

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紫蘭