幕末日本の歴史江戸時代

幕末動乱期に散った「彰義隊」とは?江戸無血開城の裏側で犠牲となった徳川臣下を解説

幕末動乱期の江戸城内では、徳川家臣たちの怒りが沸々と湧いていました。彼らが「われら義に生きる」と、新政府に対し徹底抗戦を挑んだ「彰義隊」です。幕末のクライマックス「江戸無血開城」の裏では、上野戦争で血まみれになり死闘を繰り広げた「彰義隊」という徳川家臣たちの犠牲がありました。今回は、幕末動乱期に散った「彰義隊」とは、どんな存在だったのかを解説します。

1.彰義隊発足まで

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「彰義隊(しょうぎたい)」は、徳川慶喜の警護役として誕生します。江戸の「新選組」的な存在で、薩長のような外様に大きな顔をされるのが面白くない、江戸っ子の欲求不満の掃きだめだったようです。「われら義に生きる」といい官軍に立ち向かうも、慶応4(1868)年5月15日に、残念ながら大村益次郎(おおむらますじろう)率いる新政府の砲撃により壊滅させられます。それでは、結成時の「彰義隊」をみてみましょう。

1-1大政奉還は慶喜の誤算だった?

江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は、ある時点から急に将軍職がバカバカしくなったのか、慶応3(1867)年10月14日に政権返上を明治天皇に奏上し翌日に勅許されます。所謂大政奉還をしたということ。この頃の慶喜は、新政府を外様の薩長が作れるはずはない、棚ぼた式に自分が元首になるときが来ると多寡をくくっていたのです。

その時を、今か今かと新しい日本の政治体制を、慶喜は策定していました。しかし、思ったより強敵だったのです。新政府に入れると目論んでいた慶喜は、風向きが変わり次第に追い詰められ、大坂に移った方が有利だと京の二条城から脱出し大坂城に移ります。

1-2慶喜逃亡

鳥羽・伏見の戦いに大敗した慶喜は、大坂港から江戸に向けて逃亡したのです。大坂城は新政府軍に奪われます。無政府状態の江戸では、「慶喜が帰ってきたら江戸が火の海になる」と庶民たちが不安の境地にいました。

人々は慶喜のことを「バカ殿」とか、を好んで食べており橋出身だったことから「あの豚一めが」とか、江戸っ子らしい「べらんめえ調」で呼んでいたとか。江戸城に戻り、決戦を叫ぶも、まんまと朝敵とされ大坂から逃げかえってきた慶喜の命令を誰も聞きません。

大奥の天璋院(篤姫)や妻の静寛院宮(和宮)までが、不甲斐ない慶喜に対し「朝敵とは会いたくない」とバッサリ切り捨てたのです。でも、「薩摩が先に発砲したと、真っ青な顔で捨て犬のようにプルプル震える慶喜をみて同情し救う気になったとか。

1-3彰義隊発足

薩摩の西郷には「慶喜は切腹」と、大久保には「天地に容れざる大罪」といわれ、慶喜は切腹の危機にあり、自分の保身ばかりを考えていました。勝海舟らは、徳川存続のため慶喜に恭順を進めます。松平容保を江戸城登城禁止とし、新政府へ会津藩との関係を絶ったことを表し恭順を示しました。その慶応4(1868)年2月12日に上野の東叡山寛永寺大慈院に蟄居し、新政府に対し謝罪書を提出します。そして、高橋泥舟に慶喜の警護役を命じました。

必死に抗弁を唱える主戦派には、慶喜を奪われては戦になると緊張状態にあったのです。渋沢栄一の従姉妹渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)を頭取に、天草八郎を副頭取として尊王恭順有志会(そんのうきょうじゅんゆうしかい)を結成。2月23日に安倍杖策(あべじょうさく)により、隊名を「大義を彰かにする」を由来とした「彰義隊」と名づけられます。尊王恭順有志会には、旧一橋家の家臣17名、江戸雑司谷の会合で慶喜の復権と薩摩討伐の賛同者60名で作られたようです。

「尽忠報国(国に報いて忠義を尽くす)」という、薩摩藩を朝敵とするべく血誓書を作成しています。彰義隊の屯所は天草本願寺に置きますが、4月3日に隊員が1000人を超える大所帯となり、寛永寺に拠点を移しました。寛永寺周辺は反薩長集団「彰義隊」の巣窟となっていたようです。

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