教養歴史

蒙古襲来!1度目の元寇「文永の役」をわかりやすく解説

鎌倉時代中期、日本を震撼させた大事件が起きました。海の向こうから恐ろしい強敵が攻めてきたのです。日本の命運やいかに!なんとその時、神風が吹いて……。当時、ユーラシア大陸全域を席巻していた強大国・モンゴル帝国(元王朝)による日本侵攻です。元寇と呼ばれるモンゴル軍襲来は「文永11年」と「弘安4年」の2度に及びました。今回の記事では、1度目の襲来「文永の役」を取り上げ、時代背景や経過について詳しく見ていこうと思います。

なぜ起きた?「文永の役」の時代背景と原因を探る

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文永の役(ぶんえいのえき)とは、13世紀後半、当時世界を席巻していたモンゴル帝国(中国統一王朝・元)と日本との間で起きた戦のこと。すでにロシアや中東、東ヨーロッパ地域に至るまで、ユーラシア大陸全域を手中に入れんばかりの勢いで巨大帝国を築いていたモンゴル。その目は中国大陸の東方にも向けられていました。海の向こうには日本という小さな島国が……。文永の役はどのようにして始まったのか、開戦までの流れを追ってみましょう。

モンゴル帝国とは?世界の四分の一を制圧した最強帝国

文永の役の予備知識として、モンゴル帝国とはどのような国だったのか簡単に抑えておきましょう。

モンゴル帝国とは、1206年、モンゴル高原の遊牧民出身のチンギス・ハン(ジンギス・カン)がモンゴル高原の部族を統一して築いた国です。

チンギス・ハンは優れた統率力で国を一つにまとめ、瞬く間に周囲の国々を征服し、飲み込んでいきます。

そして、彼の死後も、彼の息子や孫たちによって、ロシアや中東、ハンガリーやポーランドなど東ヨーロッパ地域と、モンゴル帝国はどんどん領地を広げていったのです。

13世紀半ば頃になると、あまりに強すぎて領地が広がりすぎて、内輪もめや内部分裂が頻発。強大国であることには変わりありませんが、ここらでちょっと仕切り直しが必要か、という段階に来ていました。

そこで原点回帰。モンゴル帝国の目は中国大陸に向けられます。

当時、中国大陸には宋(そう)という王朝がありましたが、12世紀前半に金という北方民族に侵攻され、南のほうに追いやられていました(南宋)。

この南宋を支配し中国大陸統一を目論んでいたのが、チンギス・ハンの孫にして1260年にモンゴル帝国第5代皇帝に即位したクビライ・ハン(フビライ・ハーン)でした。

クビライは1271年、国号を中国っぽく「元」と定め、本格始動。クビライが南宋を制圧したのは1276年、1279年には残党も始末して統一王朝(大元)を確立します。

文永の役とは、その真っただ中に起きた戦だったのです。

日本に目を付けたフビライと返事をしなかった日本

モンゴル帝国は南宋攻略以前に、中国大陸統一の足掛かりとして、当時の朝鮮半島にあった高麗という国を制圧します。

高麗もかなりの大国でしたので、かなり苦戦したと伝わっていますが、とにかくこれで、南宋攻略の足掛かりができました。

こうして南宋侵攻を始めたクビライ。ちょっと脅せばすぐ降参するかと思っていたら、思った以上にしぶとく、南宋はなかなか落ちません。

落ちぶれたとはいえ、かつての中国統一王朝。人口も多いしお金もあるし、兵力も潤沢です。長期戦になると見たクビライは、真っ向勝負ではなく、南宋の国力を削ぐ作戦に出ます。

それには、周辺国との交流を断ち、孤立させるのが一番です。

南宋と頻繁に交易をしていて、儲けさせている国といえばどこだ?クビライの目が光ります。何やら高価そうな品々を運び込んでいる国があるが、あれはどこの船だ?

宋王朝は、金によって南に追いやられる前(北宋と呼ばれる時代)から、日本や高麗と貿易を行っており、南宋時代に入ってからも交易は続いていました。12世紀後半、平清盛が日宋貿易に力を入れ財を成したことは広く知られています。

日宋貿易は鎌倉時代に入ってからも続いていました。

クビライはこうした情報を、直前に征服した高麗の役人たちから仕入れたようです。

また、マルコ・ポーロの『東方見聞録』には、クビライが「日本は黄金の国らしい、ものすごくお金持ちの国らしい」という話を聞いて日本に興味を持った、との記述があります。

「日本を手中に入れれば、南宋を攻略しやすくなるんじゃないか」

クビライはそう考えたようです。

何度も使節を送るも決裂・フビライ、本気モード突入

「元寇」と聞くと、元がいきなり日本に攻めてきたのかと思われがちですが、実はそうではありません。

文永の役が勃発する前に、クビライは高麗を経由して、何度か日本に使節団を派遣しています。

ただ、周囲はあまり乗り気ではなかったようです。

日本までの航海には、荒れた海を渡らなければならず危険が伴います。高麗はのらりくらりあれこれ理由をつけてなかなか船を出しません。

この状況に業を煮やしたクビライは渋る高麗の連中を一喝。「お前らが日本に行ってこい!」と命じます。

1268年、高麗の使節団が日本に到着。大宰府の役人に「大蒙古国皇帝奉書」という書簡が渡されます。書簡はいったん鎌倉幕府に運ばれますが、最終的に朝廷のもとに送られました。

書簡の内容は、使節団が持ってきたものとはいえ、まるっきり脅迫文。「あんたらみたいな極小国が、俺らのような超偉大な国に従うのは当然のことでしょ。今まで挨拶がなかったことは多めに見てやるけど、これからはちゃんと筋通しなよ。じゃないと、つぶすよ。よく考えな」というようなことが慇懃に書かれていたのです。

この頃の鎌倉幕府は、若干18歳の若武者・北条時宗が執権に就任したばかりでした。

時宗や幕臣や朝廷は、この国書を見てどう判断したのか……。選んだ道は「無視」

以前より南宋から、元(モンゴル)の恐ろしさを耳にしていたので、一応、御払いなどして災いが降りかからないようにしておいて、後は関わらないようにしよう、という結論に至ったようです。

一方のクビライはというと、日本からの返事がなかなか来ないのでイライラ。3度目、4度目……としつこく使者を出しています。

そして5度目の使者を出した頃、なんと、ほぼ、南宋制圧完了。もともと、南宋を攻略するために日本を手中に入れようとしていたわけですから、本来の目的は果たせたわけですが……。

クビライの照準が南宋から日本に向けられます。

こうして第1回目の元寇「文永の役」が始まったのです。

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