幕末日本の歴史江戸時代

幕末動乱期に散った「彰義隊」とは?江戸無血開城の裏側で犠牲となった徳川臣下を解説

5. 彰義隊壊滅

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旗本中心で結成された彰義隊は、新政府軍に服するのは潔しとはしませんでした。西郷隆盛と合流した大村益次郎は、近代武器を使い彰義隊に総攻撃を仕掛けます。彰義隊はちりぢりになったのです。それでは、彰義隊が壊滅する姿をみてみましょう。

5-1彰義隊壊滅への始まり

新政府から彰義隊討伐の命を受けた大村は、軍防事務局判事という肩書をもらい、颯爽と江戸に向かいます。「江戸の乱れを放置すれば、新政府の基盤が緩む」と感じたのです。江戸に到着したのは、慶応4(1868)年4月4日でした。

戦わずして新政府に従うことに不満を抱いていたため、「打倒薩摩」のムードが彰義隊の中で一気に広がったのです。隊員は2000~3000人に膨らんでおり、江戸の至るところで薩摩藩士と小競り合いを起こします。関東一円に反新政府軍勢力が不穏な動きをし、一揆も横行していました。彰義隊とその輩が結合すれば、江戸で大きな内乱が起こることは自ずと予想出来たのです。

5-2寛永寺を攻撃せよ

恭順を示す旧幕府を追悼するべきでは無いという薩摩の西郷とは違い、大村ら長州藩は早急に対処せねばという考えでした。大村は、薩摩や佐賀の藩士を殺傷する彰義隊の行動も問題視します。もう、彰義隊の悪行を黙認出来ないと感じ討伐案を示しました。

その案を聞いた西郷は重い口をやっと開き「彰義隊の件は大村に一任する」といい、大村を指揮官に置き彰義隊討伐へと乗り出したのです。彰義隊壊滅の1週間前のことでした。江戸の戦災を最小限にするため、短期決着しかありません。大村の策は、彰義隊を拠点の寛永寺に集め一気に攻撃するという作戦でした。新政府軍に、「5月15日に寛永寺で彰義隊を攻撃する」とふれを出します。

5-3 夜戦では無く昼間に正々堂々と

まず大村は、彰義隊に戦闘予告をします。新政府軍の討伐が始まると知ると、3000人いた隊員の内2000人が逃げ出し、あっという間に1000人になったのです。これは、短期決戦のために仕組まれた大村の陽動作戦でした。

大村は、射程距離や命中精度にも優れた佐賀藩自慢のアームストロング砲を導入します。更に「新政府軍は正義なのだから、昼間堂々と戦う」と、夜戦派の他の参謀たちを説得しました。夜戦では逃げる彰義隊が火をつけて回る可能性があり、江戸を守れないとの大村の思いがあったのです。

5-4彰義隊最後の時

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大村は一番の要寛永寺正面黒門を薩摩藩を中心に鳥取藩と熊本藩が固め、背面の団子坂方面は長州藩、佐土原藩を布陣し挟み撃ち作戦に出たのです。側面には佐賀藩や尾張藩の小銃隊や大砲隊を置き、この戦い最強兵器アームストロング砲は、寛永寺の真向かい不忍池を挟んだ加賀藩邸に設置します。あえて東北には軍を置かず、逃げ道を作りました。

午前8時ごろから開戦します。彰義隊は旧政府の威信を賭けて反撃し、前半は横ばい状態で決着せず。正午を過ぎた頃の薩摩藩兵を引き連れた西郷の黒門突破と同時に、大村はアームストロング砲を撃ったのです。見事に寛永寺の建物を直撃し、夕刻には上野方面から煙が上がりました。日本の将来がかかった戦に、彰義隊は負けたのです。江戸城にいた大村には、大砲の威力にビビった彰義隊が、東北側の逃げ道を通り根岸方面敗走する姿が頭に浮かんでいたのでしょう。「始末はついた」といったようです。

5-5彰義隊討伐の意義

たった1日で大村が指揮する新政府軍に、彰義隊は敗北しました。彰義隊員の亡骸は、しばらく放置され葬ることも許されなかったのです。大村はこの事態を知り、一人で葬りに行ったという逸話が残っています。彰義隊はほぼ全滅しますが、生き残った者も厳しく詮議されました。頭取だった天野八郎は、捕縛され投獄後数ヶ月で死亡しています。

新政府軍の基盤は揺ぎ無い物となり、2ヶ月後には江戸が東京に改名されました。彰義隊鎮圧後も維新の武力討伐は、翌年の箱館戦争まで続きます。

彰義隊討伐が重要とされる意味は、もし形勢が逆転していたら新政府も痛手を負ったことは明白で、両者にとって大切な局面だったのです。西日本は新政府が抑えているので、関東を奪われた旧幕府の残党は東へ向かうしかありませんでした。しかも、虎視眈々と狙う英仏軍らに新政府は、強さを見せつけることができたのです。鳥羽・伏見の戦いから始まった明治維新を制した新政府は、彰義隊を壊滅に追い込み歴史が移り変わる決定的瞬間の勝利者となったのでした。

戊辰戦争の中で起きた局地戦の一つ上野戦争で壊滅した彰義隊の存在も幕末維新期の悲しい史実

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彰義隊は、徳川最後の将軍慶喜を警護するために結成しました。土方歳三が戦死した箱館戦争の陰に隠れていますが、彰義隊が死闘を繰り広げた上野戦争は江戸城無血開城の裏で起った史実です。上野寛永寺で、大村益次郎の指揮による近代武器アームストロング砲の餌食になり1日で壊滅しました。上野戦争に勝利した西郷隆盛の銅像が立つ上野公園内は、寛永寺敷地内だったこともあり、彰義隊戦没者供養のための墓碑がもひっそりと佇んでいます。

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