平安時代日本の歴史

平安時代後期の戦乱「後三年の役」を歴史系ライターがスッキリわかりやすく解説

平安時代といえば、優雅な都人たちが着飾り、文化を謳歌し、みやびな生活をしていた平和な時代だと思いがちでしょう。しかしそんなことはありません。平安時代後期になるに従ってキナ臭い戦乱がたびたび起こるようになりました。それはなぜか?実はこの頃から武士の活動が活発になってくるのです。筆者は以前、「前九年の役」に関する記事を書きましたが、今回はその続編となる「後三年の役」について解説させて頂きます。結果的に東国武士を束ねることになる源氏と、東北地方に栄華を築くことになる奥州藤原氏の興隆へと結びつくことになるわけで、非常に興味深い事件だったと感じます。

源氏と奥州との深い関係

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「後三年の役」について解説する前に、実はそれ以前から源氏と奥州(現在の東北地方)とは深い関係で繋がっていました。話は「前九年の役」にまで遡ります。

鎮守府将軍として源頼義が派遣される

11世紀前半の奥州には、陸奥国の安部氏、出羽国の清原氏という二大豪族勢力が存在していました。その中でも安部氏は奥六郡という肥沃な土地を支配していて、とても強い勢力を持っていました。

当時の奥州というのは、京都の朝廷に服属しているといってもアイヌ系の血を引いた者が多く、独立心の旺盛な気風がみなぎっていました。そのため都の人々も彼らを異民族扱いし、「俘囚(ふしゅう)」と呼んで忌み嫌う傾向にあったようです。

その時代に生きた安部氏の当主、安部頼良も例外ではなく、反発心の固まりのような人物だったようですね。朝廷に対して税を収めなくなり、あまつさえ陸奥国司を追い出してしまう始末。

そんな時、鎮守府将軍として陸奥へ赴任してきたのが源頼義でした。今回の記事の主人公の一人でもある義家の実父ですね。彼は貴族ではなくれっきとした武士でした。

安部頼良を討伐しようと陸奥へ乗り込もうとした頼義でしたが、一条天皇の中宮だった藤原彰子の病気快癒祈願のために頼良に大赦(罪人の罪を許すこと)が下ったのでした。

朝敵から一転して罪を許された頼良は大いに喜び、態度を180度変えて服従を示します。自分の名前ですら、頼義と同じ読みであることを憚って頼時と改名しているくらいですから、よほど改心したのでしょう。

勝ち組となった清原氏

いったんは服属の態度を表した頼時でしたが、1056年に事件が起こりました。頼義方の言いがかりともいえる挑発で、安部氏と源氏との間で戦闘が開始されたのです。当時、頼義は陸奥守の任期切れ間近だったため、安部氏を討って、その功績で陸奥に居座ろうと考えていたという説が有力ですね。

前九年の役と呼ばれた戦いは激しいものとなりました。頼時が討ち死にし、息子の貞任に代わっても安部氏の抵抗の激しさは収まりません。いっぽう戦備不足だった頼義軍は各地の戦いで敗れ、兵の数も、武器も、兵糧も何もかも不足したまま我慢するしかなかったのです。

1062年、頼義はついに最後のカードを切りました。中立を保っていた出羽の清原氏を味方に付け、一挙に戦局の打開を図ったのです。

頼義の作戦は図に当たり、頼義軍と清原軍に挟み撃ちにされた安部貞任はついに敗走。武名を轟かせた安部氏は滅び去ってしまいました。

頼義としては頼時を討った後、頼時の次男宗任に、時期がくれば安部氏を再興させたいとの意図を持っていました。しかし頼義は陸奥守を解任され、空いた奥六郡には清原氏がやって来て支配を始めたのです。

結局、清原氏の一人勝ち状態となり、まんまと源氏勢力は追い出されてしまったのでした。やがてこのことが、源氏と清原氏との対立を生むわけです。

清原氏の複雑な人間模様とは?

前九年の役で、頼義軍をさんざん悩ませた藤原経清という武将がいました。経清は戦いで敗れた後に斬首されますが、その妻は安部頼時の娘。その連れ子とともに清原氏に引き取られ、当主武則の嫡男武貞と再婚することになったのです。ちなみに連れ子は清原清衡(きよひら)と名乗ります。

ところが武貞は亡き前妻との間にも真衡(さねひら)という男子がおり、さらに後年には清衡の母との間に家衡(いえひら)という子供が生まれました。

こうして同じ家族仲良く!というわけにいかないのが世の常ですよね。

 

・清原氏の正当な系譜を継ぐ真衡

・武貞の養子となった清衡

・清原氏と安部氏の系譜を継ぐ家衡

 

将来の清原氏を継ぐ可能性のある人物が3人もいるわけですから、将来への不安がないわけがありません。

やがて武貞が亡くなり、武貞の前妻の子だった真衡が家督を継承しました。しかし、悪いことに真衡には子供がおらず、常陸平氏の流れを汲む成衡(なりひら)という養子を迎えることになりました。

いっぽうで関係が悪化していた源氏と対立したままではまずいと考えた真衡は、源頼義の娘を成衡の妻として選んだのです。

真衡にとっては、源氏と平氏、2つの武士団の血統を取り込むことで、権威付けを図ろうとしたのでしょう。

奥州の大乱「後三年の役」はじまる

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武士のプライドの高さは、江戸時代も平安時代も関係がなかったようで、「後三年の役」も、ほんの些細な行き違いから発生したものでした。この戦いの流れを見ていきましょう。

真衡VS清衡&家衡の抗争始まる

奥州で絶大な勢力を持つようになった清原氏。そんな清原氏といえでも一枚岩でなかったエピソードから戦いは始まりました。

ここに清原氏の一族で、吉彦秀武という老人が登場します。秀武は武則以来3代にわたって仕え、前九年の役でも活躍した経歴がありましたが、尊大で専横な振る舞いをする真衡に対して快く思っていませんでした。そう、同族の連合体だったかつての清原氏は、真衡の頃から独裁政権となっていたのです。

それでも真衡の養子となった成衡が結婚すると聞き、祝いのためにわざわざ出羽からやってきたのでした。祝いの品として出羽で産出する山のような砂金を携えて…

真衡の屋敷へやって来たものの、当主の真衡は奈良法師と碁を打っている真っ最中で、庭先に秀武が来ているのを知りながら無視し続ける有様。せっかく祝いに来てもらいながら、この態度は相手の顔に泥を塗るような行為です。

双方とも相手のことが気に入らなかったとも言えますが、ここで堪忍袋の緒が切れた秀武は、砂金を庭にぶちまけてそのまま帰ってしまいました。

この態度に怒り狂ったのが真衡でした。自分がした行為を棚に上げ、「主に向かってあの態度は許さん!成敗してくれる!」とばかりに軍勢を催して討伐軍を編成したのです。時に1083年のことでした。

数千の大軍で真衡軍が向かってくると聞いた秀武は、このままでは勝ち目がないと思い、こともあろうに清衡家衡に援軍を要請しました。

清原氏の養子になった成衡と、源頼義の娘が結婚すれば、それはすなわち清原・安部両方の血も入っていない血統が出来上がるわけで、それを危惧した清衡・家衡はすぐさま応じました。元々、真衡と清衡・家衡の仲が悪かったこともあるでしょう。

村を焼き払い、真衡の館に迫る連合軍。しかし真衡もさるもの、すぐさま軍勢を率いて反撃に出てきました。やがて戦況の不利を悟った清衡・家衡は軍を引き、全面対決は避けられることになりました。

しかしこれは第1ラウンドに過ぎなかったのです。

源義家の登場と、真衡の死

その年の秋、新たに陸奥守として赴任してきたのが、源頼義の嫡男だった義家でした。源氏の棟梁として人望があり、白河天皇の警護をするほど武名の高かった人物です。さっそく真衡は義家を大いに歓待し、当の義家もまんざらでもない様子。

数日後、真衡は再び秀武を討つべく出羽へ出陣。義家もまた「留守は任せておけ」と言わんばかりに、郎党たちを真衡館に待機させました。この頃の義家は完全に清原側だったのです。

すると、前の合戦で苦杯を舐めていた清衡・家衡たちは虚を突いて真衡館へ迫り、一挙に攻め懸けようとします。しかし、そこに立ちはだかったのが義家でした。圧倒的な強さで連合軍を蹴散らし、大敗した清衡たちは命からがら逃げだす有様でした。

ところが、出羽へ向かったはずの真衡が突如急死。清原氏が混乱する最中、幸運にも清衡・家衡たちは義家に降伏を願い出て、あっさりと許されることになりました。さらにラッキーなことに、真衡が亡くなったことで奥六郡に空白が生じ、それぞれに3郡ずつが与えられることになったのです。

この清衡・家衡たちにとって棚ぼたともいえる処置ですが、おそらく義家は、清原・安部両氏の血が入っていない成衡が、清原氏を継ぐことは理に適っていないと判断したのでしょう。

その後の成衡の動向は不明ですが、その後の合戦で討ち死にしたとも、下野国(現在の栃木県)に領地を与えられたともいわれています。

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明石則実