2-3目を細めた勝海舟
彰義隊の様子をみていた勝海舟は、ここぞとばかりに「江戸の警備は、旗本に任せるべき」との意見を西郷隆盛に発します。勝は「武力闘争は阻止すべきだが、何かの時にきっと役に立つ」と西郷を解きほぐし賛同させた上で、自然に彰義隊を認めさせました。
この頃の渋沢は、心の中に一点の曇りもなく純粋に彰義隊を運営しています。渋沢と天野は兄弟の盃を交わした仲ですが、独断専行で勝手に物事をこなす天野を嫌いだったのです。更に繊細な渋沢に対し、大袈裟な物言いで迫る姿も癪に触ったとか。
江戸城内でも天野は「戦だ!戦だ!」と騒ぎ立てており、慶喜にもよく思われてなかったようです。「薩摩を倒せ!」と騒ぐ天野をみて、薩摩に勝てるはずはないと彰義隊の重鎮たちも隊のあり方に疑問を持ちはじめます。
2-4彰義隊を離れる渋沢
そんな時渋沢は、旧幕府総裁で津山藩主の松平三河守から呼び出され、彰義隊の存在について質問を受けます。「あくまで上様をお守りするのが役目」と答えました。しかし、渋沢は「彰義隊はこれまで」と、存在を危ぶみ彰義隊から離れたのです。残った天野は「裏切り者目!」と、渋沢を成敗しようと探し、蔵に隠れていたところを槍で突きますが、渋沢は一命を取り止めました。
渋沢の後に彰義隊の頭取になったのは、3200万石の体身本多郁之助でした。彰義隊の主な仕事が徳川家公認の江戸市中警護になったころに本多は頭取を辞任し、小田井蔵太、池田大隅守が選ばれます。これまで、青隊、赤隊、白隊、黒隊、黄隊と呼ばれていた隊名は、第一番隊~第十八番隊まで番号で呼ばれるようになりました。
3.江戸城受け渡しに抵抗する彰義隊
江戸市中警護役を担っていた頃の彰義隊は、良家の次男や三男などお金に不自由がないもの数百人の集まりでした。江戸の警備をする姿は、提灯に抜き身の槍を持ち闊歩する姿は、新選組のようだったとか。一方では、朝敵とされた慶喜の「名誉回復」を掲げる気運が高まっていたのです。でも、裏では西郷隆盛が何かを企んでいました。
3-1江戸城総攻撃の中止
彰義隊は、慶喜の護衛のため上野に移転します。新政府参謀の西郷隆盛に旧幕府の重臣勝海舟が3月15日に行われる予定の江戸城総攻撃の中止を求める会議が13、14日に行われ西郷が勝の言い分を受け入れました。江戸に向う新政府軍は、突如として進軍を中止します。
彰義隊を壊滅に追いやる大村益次郎(おおむらますじろう)が、各藩からの寄せ集めの軍隊を近代的な組織に育てていました。「長い刀を差している輩とは本当の話は出来ぬ。」と、新しい時代には銃こそが必要と取り入れたのです。武士の魂の刀を捨てたのでした。4月4日に大総督府と徳川宗家との間で、江戸無血開城の最終合意に達します。
3-2江戸無血開城
江戸城から9日に静寛院宮が清水邸に移り、翌日には天璋院が一橋邸に退去します。11日に慶喜が蟄居先の寛永寺を出発した日に、江戸城が大総督府に渡されました。
「恭順の意志を示す主の身柄を、他藩(備前池田家)に預けるなど言語道断」と、山岡鉄舟が西郷との会見で断固拒否したことで、慶喜に幼い頃過ごした水戸家を謹慎先にとの配慮がなされた水戸に向かい、徳川幕府は平和的な終焉を迎えます。
彰義隊は、慶喜と共に水戸に行くべきだとの声が上がるも、天野は江戸にいて薩摩と戦うべきだと主張したのです。ここに新たな火種が…。
4.彰義隊を壊滅させた大村益次郎とは?
彰義隊を壊滅させた指揮者は、長州藩の大村益次郎です。本来の鎮圧役は大総督府参謀西郷隆盛ですが、静観する西郷をぬるいとみた京から4月末頃に軍防事務局権判事で長州藩士の大村益次郎が、彰義隊討伐役に選ばれ加勢しました。倒幕・明治維新に尽力した人物として「維新の十傑」の一人と称されています。大村益次郎とはどんな人物かをちょっとだけご紹介しましょう。
4-1なぜ討伐役に大村益次郎?
勝海舟と西郷隆盛の2人の英雄会談は、「腹芸(はらげい)」と呼ばれています。西郷の解決が旧体制との妥協だったことから、京の強硬派には西郷の評判は芳しく無く、「西郷で大丈夫か?」との声が上がっていたようです。
大村益次郎は長州藩士で医者の家に生まれたという生い立ちも、西郷とは異なり新しい物の考え方が出来るとして彰義隊征伐役に選ばれます。情にもろい西郷ではだめ、有能で合理主義的な考え方が出来る大村をとの評価が決め手でした。しかも、大村は蘭学者緒方洪庵の適塾で、医術と近代的な兵学を学んでいます。塾の中でも優秀で武士の子らを抜き3年目には塾頭に選ばれた逸材でした。新政府は、大村を投入し旧体制からの脱却を図ったようです。
4-2長州藩の戦の概念は?
大村益次郎は、長州藩の戦の概念を根本から覆します。高杉晋作らが農民や町人など身分を問わず兵を集め騎兵隊を作り、大村は封建的な主従関係を捨て藩の直轄軍として組み込みました。全ての兵に偏り無く銃を持たせ、首尾一貫した隊へと訓練したのです。
大村の初陣は、幕府軍が1万人を引き連れた第二次長州征伐でした。朝敵となった長州は1000人を引き連れ、近代化した軍隊の命運を賭けた戦いだったのです。大村は徹底的に地形を調べ、数が少ない兵でも有利に働く戦法を考え出していました。
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