ちょっと雑学
尊王恭順有志会は、何処の輩かも分からず武士道も知らない者もおり、徳川に義理も恩義もない烏合の衆で、武士のメンツも丸つぶれの状態でした。そこで、一橋系の武士を率いる渋沢成一郎が立ち上がったのです。そして雑司谷の料亭茗荷屋で一橋家家臣を集め「何としても、上様の朝敵の汚名返上をしたい」と訴えます。本多敏三郎や伴門五郎など13人が集まりました。
2.彰義隊の活躍とは?
彰義隊結成の頃は、近藤勇や土方歳三を始め新選組の残党を柱に結成された甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)など、新政府軍と徹底抗戦を主張する勢力も数多くいました。彰義隊も大きくなるにつれて、意見の食い違いなども起きます。この時代にあった、彰義隊の活躍ぶりをみてみましょう。
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2-1結成時の彰義隊
結成された時の彰義隊は、役員のほぼすべてを一橋家が担っています。2月22日に浅草本願寺に集まったときに、投票で役員を決定しました。一節によるとこの投票は形だけの出来レースだったとか。メンツは、頭取の渋沢成一郎、副頭取の天野八郎、幹事は本田敏三郎、伴門五郎、須永於莬之輔でした。
渋沢成一郎が頭取になったのは、蕨宿の名主岡田称平左衛門の三男という家柄の良さもあり順当といえるでしょう。慶喜の信頼が厚く、当時の彼は一橋系官僚軍の中心になる決心をしていたとか。更に従姉妹の渋沢栄一は慶喜の弟昭武とパリ遊学中だったのです。
2-2江戸庶民から認められる彰義隊
副頭取の天野八郎は上野の庄屋の次男で、14代将軍家茂が上洛したとき京におり武士に登用されます。成一郎は頭目になることを望んでおり、何かと悲憤慷慨する天野がウザかったようです。次第に足並みが揃わなくなり危機感を覚えた成一郎は、彰義隊の結束を固める目的で血誓書を再び作成します。
内容は「身命を投げ打ってでも、奸賊の薩摩を殺戮し、徳川を再興させよう」というもので、全員が「異議なし」と叫んだとか。彰義隊の勢力は次第に増し、隊員も100人、200人、300人と増えていきます。江戸庶民の暮らしを守るべく、昼夜の巡回をするようになり、江戸市民からの評価も高くなったようです。
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