幕末日本の歴史江戸時代

歴史のターニングポイントとなった「二条城」を歴史系ライターが解説!見どころスポットも

平安時代から江戸時代末期に至るまで1000年の都であり続けた京都。今や日本国内をはじめ世界中から来訪客が訪れる観光のメッカですよね。京都といえば由緒ある神社仏閣がたくさんあるというイメージなのですが、東山や伏見、そして二条などには「お城」も存在していました。特に二条城は市街地の真ん中に構えられたお城で、世界文化遺産の一つでもあるのですね。今回は二条城の波乱の歴史を含めて、お城の見どころスポットなども紹介してみたいと思います。

江戸期二条城ができるまで~二条城前史~

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現在見る二条城は江戸時代になってから建てられたもの。実はそれ以前にも二条城と呼ばれるお城がありました。足利将軍や織田信長、豊臣秀吉などが居城として造営した「旧二条城」の歴史をひも解いていきましょう。

足利義輝が造営した「二条御所武衛陣の御構え」

1565年、室町幕府第13代将軍足利義輝は、京都から離れた斯波氏の屋敷跡に新たな御所を造営しました。御所といっても周囲は土塁や水堀に囲まれ、立派な城としての機能を果たしていたといわれていますね。城の名は「二条御所武衛陣の御構え」といい、「武衛」とは斯波氏が代々名乗った家号のこと。その跡地に造ったから「武衛陣」と呼ばれていました。そして「構え」とは城や砦のことを指しています。

所在地は現在の京都御所の東隣にあたり、ちょうど平安女学院高校や平安女学院大学の辺りにあったとされていますね。二条通から北に離れた場所にありますが、ちょうど南北に室町通が貫くため、いかにも将軍の御座所らしい場所だったのではないでしょうか。3代将軍義満の「花の御所」跡も真っすぐ北へ向かえばたどり着けます。

ところが同年、足利義輝に不幸が襲いました。将軍親政を目指した義輝の存在が邪魔になった三好三人衆らが、突如二条御所を攻撃してきたのです。

 

京公方様御館ノ四方ニ深堀高塁長関堅固ノ御造作有リ未タ御門ノ扉以下ハ不出来カゝリケル所ニ松永弾正三好日向守同下野守石成主税松山安芸守同新太郎等一味同心ノ族清水参詣ト披露シ勢ヲ集メ永禄八年五月十九日二條御所武衛陣ノ御構エ奉押寄

引用元 「足利季世記」

義輝様のお館は四方に深い堀を穿ち、高い土塁を築いて堅固な造りだった。しかし未だ門の扉が完成していないなど不備も多くあった。そこへ松永弾正(久通か?)、三好三人衆らが同心して清水寺へ参詣すると称して軍勢を集め、永禄8年5月19日、二条御所へ押し寄せてきたのだ。

 

不運なことに二条御所はまだ造営途中。本来なら堅固なはずだった城は、その機能を発揮しないまま突破され、義輝は暗殺されてしまったのでした。【永禄の変】と呼ばれるこの事件によって、二条御所武衛陣は炎上してしまったものと思われます。

室町幕府最後の将軍が住んだ二条古城

1568年、織田信長に奉じられた足利義昭が入京。三好三人衆らを蹴散らして第15代将軍となりました。ところが義昭の御座所は本圀寺という寺院で防備が手薄な状態。隙を突かれて三好三人衆に襲撃されますが、織田家家臣や奉公衆らの救援によって事なきを得ます。

そこで信長主導で新たな御所の造営が始まりました。現在の二条城と区別するために「二条古城」と呼ばれていますが、当時は「武家御城」「公方之御城」などと呼称されていたとか。

「信長公記」などの史料に「二条の古き御構え、堀をひろげ」とあるように、場所はかつての二条御所武衛陣のあった場所。城域もかなり拡張されて大規模な普請工事だったといいます。

宣教師ルイス・フロイスによれば、工期短縮のために石仏や灯篭なども石垣工事に使われたとあり、わずか70日ほどで完成したといいますから、かなりの突貫工事だったのでしょう。当時はまだ珍しかった石垣で囲まれた城は、京の人々を大いに驚かせたとか。また天守閣風の大きな建物の建っていたそう。

しかしわずか5年後、信長と不和になった義昭は敵対勢力と呼応して兵を挙げ、信長の軍事力の前に敗れ去り、京都を追放されてしまいました。

その後は城も破却されてしまい、建物の一部は安土城の建設に転用されたそうです。現在の二条城内や京都御所には、発掘された義昭時代の石垣が復元されていますね。

織田信忠が討ち死にした二条新御所

足利義昭が住んでいた二条古城とは別に、信長は妙覚寺の隣にある二条晴良の屋敷を譲り受けて、ここに新城の築城を命じました。安土城の建設と同時に進められたこの城は1577年に完成し、信長はここに京都での居所として2年ほど住むことになりました。

場所は京都御所からさらに南に位置し、地下鉄烏丸御池駅の付近だとされています。現在はハローワーク西陣や京都国際マンガミュージアムのあるところですね。

その後、正親町天皇の皇子誠仁親王に献上されて「二条新御所」となったわけです。そして信長は定宿を本能寺と改めました。

1582年、信長の家臣明智光秀が謀反。世にいう本能寺の変が起こります。信長の嫡男信忠は変報を知ると本能寺へ向かおうとしますが、すでに本能寺が焼け落ちたことを知り、居所としていた妙覚寺で明智勢を迎え撃とうとしました。

しかし妙覚寺は守るに難しいため、致し方なく誠仁親王にはお移り頂いた上で京都新御所に籠城したのでした。しかし明智勢は10倍以上の兵力があり、まさに多勢に無勢。信忠はじめ家臣たちは奮戦するも、やがて城に火が掛けられて信忠は自害し果てたのです。

もしこの時、信忠がうまく京都を脱出できていたら…日本の歴史は変わっていたかも知れませんね。

秀吉も二条城を建てていた?

信長の跡を継いで天下を取った豊臣秀吉もまた、二条付近に城を造っていました。場所は現在の二条城から堀川通を挟んで奥まったところにありました。西福寺の門辺りに「妙顕寺城」の石碑が建っています。

元々は妙顕寺という日蓮宗寺院があったのですが、ここに秀吉は新邸を新築し、京都における政庁としていました。1586年に聚楽第が完成するまで使われていたそうです。

屋敷とはいえ構造は城そのものであり、外堀を巡らして天守閣もあったそうですから、まさに城と呼ぶにふさわしいものだったでしょう。

江戸期二条城の歴史

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現在見られる二条城は、江戸時代になってから徳川家康によって造られたものです。徳川幕府の始まりから終わりまでを見てきた二条城の歴史を解説していきましょう。

天下普請によって築かれた大城郭

関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、豊臣家を牽制するためにいくつもの巨大な城を築造しています。江戸城、駿府城、名古屋城、伏見城、篠山城、彦根城、丹波亀山城などなど。江戸期二条城もまた、その時期に誕生した新しい城です。

これらの巨大な城を築造するために、家康は全国の大名たちに命じてお手伝いをさせました。これを【天下普請】といいますね。天下普請には3つの大きなメリットがありました。

・豊臣家を牽制し、動きを封じ込めること。

・巨大な城を次々に造ることで、徳川家の威光を見せつけるため。

・有力大名の財力を削ぎ、徳川家に反抗できなくすること。

天下普請の中でも二条城は比較的早くに誕生した城ですが、そこには家康ならではの意図がありました。まず豊臣家のいる大坂と京都の距離が近く、「徳川の天下」だということを京都の町衆たちに知らしめることが重要でした。また京都に大きな拠点を持つことで、天皇や朝廷の権威を取り込みたい心積もりがあったこと。

戦災で焼け落ちた伏見城も、ほぼ同時期に再建されていますが、これも「天下を引き継ぐのは徳川!」だということを内外に知らしめる意図があったようです。

1602年には二条城の天守や御殿が完成し、家康の征夷大将軍宣下もここで行われました。徳川幕府のスタートはまさにここだったのです。

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