信長の黒母衣衆に抜擢!戦場を疾駆する成政
まずは若き日の佐々成政の姿を見ていきましょう。相次ぐ戦乱で兄二人を失うも、佐々家の当主として、そして信長の親衛隊として活躍していくのです。
佐々成政の出自とは?
佐々家の出自については以下の説が有力のようです。
源平合戦や承久の乱で活躍し、備前国(現在の岡山県東部)へ移り住んだ佐々木源氏の一族、加地信実の八男氏綱だという説ですね。氏綱は上総国(現在の房総半島)に本拠を構え、そこで「佐々」を称したとされています。たしかに「佐々木」と「佐々」は似ていますよね。
やがて子孫が尾張国(現在の愛知県西部)へ移り住み、1530年代になって比良城を築城して本拠としました。本編の主人公成政も比良城で生まれていますが、現在は光通寺というお寺が建っていて遺構は存在していません。
ちなみにこの比良城には逸話があって、この城の近くに「あまが池」という池がありました。そこには身の毛がよだつほど恐ろしい大蛇がいるといわれており、皆は「蛇池」と呼んでいました。その話を伝え聞いた織田信長は、真偽のほどを確かめようと近郷の百姓たちを招集して池の水を汲み出しました。ある程度池の水が減ったところで信長自ら水中に潜って大蛇を探したのですが結局見つからず、残念な面持ちのまま清洲城へ帰っていったそうです。
この池は今でも比良城の近くに現存していますね。
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兄二人を失うも、黒母衣衆に抜擢される
1536年、比良城で生まれた成政は15歳で信長に仕え、戦場で主君を守る馬廻りとして頭角を現します。しかし、織田と今川との激戦だった小豆坂の戦いで活躍し、「小豆坂七本槍」と称された兄二人が相次いで戦死し、佐々家の家督は三男坊の成政が継ぐことになったのです。
美濃の斎藤氏との戦いだった森部合戦に参戦したり、軽海の戦いでは名のある敵将を討ち取るなど功績を挙げるなどし、1567年には黒母衣衆筆頭に抜擢されました。
黒母衣衆とは信長の旗本衆の中でも側近中の側近で、10名ほどが選抜されて編成されていました。背中にまるで黒い風船のような母衣(ほろ)をまとい、戦場を疾駆する姿は花形であり、武士たちの憧れでもあったのです。
また1568年、信長は足利将軍義昭とともに上洛しますが、この際に成政が助言をしたためともいわれています。
数々の戦いに参加して武功を挙げる
織田家が上洛後、その勢力を拡大していく中で成政は多くの戦いに参加しています。
1570年、浅井氏の籠る小谷城を攻めた際、まず南東にある横山城を攻め取ろうとしました。ところが織田軍が陣を移動する際にどうしても小谷城に背を向けてしまいます。チャンスと見た浅井勢が背後を襲おうとした時、成政たちが殿軍となって立ちふさがったのでした。
成政自身も襲撃されながら多大な武功を挙げ、敵の追撃を阻みます。この時、成政と親しい馬廻り衆たちが加勢に加わって共に防戦したとありますから、成政は人望もあったのでしょう。
また1575年の長篠合戦では、他の武将たちと共に鉄砲隊を率いて活躍しています。成政の鉄砲戦術は優れたものだったらしく、金ヶ崎の退き口と呼ばれた撤退戦でも、羽柴秀吉を助けて鉄砲の二段撃ちで敵を撃退したそうです。これが元ネタとなって長篠の三段撃ちの逸話が生まれたのだとか。
しかし激しい戦いの連続の中で不幸も訪れていますね。長島一向一揆征伐の最中には嫡男の松千代をわずか13歳で失ってしまいます。次男の早川雄介は存命でしたが、成政と共に北陸へ赴くことはなく、母方の早川姓を名乗って比良に残りました。この地に今でも早川姓の人が多いのはそのためです。
跡継ぎのいない成政は、娘婿の佐久間盛政の子勝之など何人かを養子に迎えていますね。
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晴れて大名となった成政
信長の元で目覚ましい働きをし、戦場を駆け抜けた成政。そして彼にとって新しい活躍の舞台が待っていました。ここからは北陸での成政の活躍ぶりを見てみましょう。
越前国小丸城主となる
長篠での軍功が認められた成政は、次に越前国(現在の福井県)へ赴くこととなりました。織田軍と一向一揆との戦いで荒れ果てた越前の人心を安んじるため。そして次なる敵、上杉謙信と対峙するために成政の力がどうしても必要だったからです。
改めて柴田勝家の与力となり、前田利家、不破光治らと共に府中三人衆と呼ばれました。また居城を小丸城に定め、3万3千石の大名格となったのです。とはいえ勝家の直属ではなく、信長の戦略に従って各地の戦場へ赴いては戦いに参加する立場でした。
石山本願寺攻め、播磨平定戦(三木城攻め)や有岡城の攻城戦など数々の戦いに参加していますね。ちなみに播磨の黒田官兵衛とは荒木村重を介して知り合い、のちに官兵衛が豊前(現在の福岡県)へ赴任して反乱に手を焼いた際には成政が援軍に駆け付けています。
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