ヘンリー8世とイギリス独自の宗教
こうしてイングランドにはテューダー朝が誕生していきましたが、この頃から新しい宗教をイングランドでは作っていくことになります。
イングランドが絶対王政に入っていき、ヘンリー8世の時代になると子供が生まれなかったという理由から離婚問題に発展。ヘンリー8世は男子を産めないキャサリンと離婚することを決めたのです。
しかしカトリック教会においては離婚は絶対になし、そこでヘンリー8世は「そもそもその結婚が無効であった」ということをローマ教皇に認めてもらおうとしたのですが、これに対して神聖ローマ皇帝であったカール5世が教皇クレメンス7世に対して認めるべきではないと抗議を出してヘンリー8世の離婚を認めることはありませんでした。これに激怒したヘンリー8世はカトリックからの決別を表明。イングランドではキリスト教のトップははローマ教皇ではなくイングランド王にあるとする国王至上法を発令し、トマスモアなどの反対するものを次々と弾圧していったことによって英国国教会が成立することになりました。
このようにカトリックからの決別を表明したことによってイギリスは教皇からの支配から脱することとなりましたが、これが原因でしばらくの間カトリックと国教会で混乱が生じていくようになります。
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エリザベス1世の時代
ヘンリー8世の死後、次々と国王が変わっていくようになり、最終的にはアンリ2世とエリザベス1世が即位。エリザベス1世が女王として即位するとアンリ2世は「メアリーこそがイングランドの王位継承権者である」と抗議しましたが、アンリ2世はスコットランド女王に即位。
しかし、メアリーがエリザベス1世の暗殺を企んでいたことがわかるとエリザベス1世はメアリーを処刑。カトリックとの対立は決定的なものとなりました。
カトリック教徒であったメアリーを処刑したことによってカトリックの最大の守護者となっていたスペインと敵対関係になっていくようになります。
エリザベス1世はこの当時起こっていたオランダ独立戦争でオランダの独立を支援。元々スペインが支配していたオランダの独立を認める事はスペインからしたら邪魔でした。
さらにはスペインの最大の強みである航海に対しても海賊を使って私掠船を次々と使ってスペイン本国に持ち込んでいた銀や香辛料を奪い取っていくことになります。
これに激怒したスペインはついにイングランド侵攻を決意。フェリペ2世は1588年にリスボンに集結した130隻のスペイン無敵艦隊をイングランド沿岸に進めさせます。この当時イングランドにはスペインに敵うだけの海軍を持っていませんてましたが、海賊上がりのドレーク率いる海賊部隊が無敵艦隊に対抗。両艦隊はドーバー海峡で遭遇してイギリス艦隊は8隻の燃え盛る火船を無敵艦隊に突入させ、無敵艦隊をさんざんに打ち破り、アルマダの海戦と呼ばれる海戦にて無敵艦隊を壊滅。この当時の最強の国家であったスペインを打ち破った事はイングランドの栄光を決定的なものにする形となっていき、そのかわりこの海戦に敗北したスペインは衰退することになります。
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スコットランドとの同君連合と革命
エリザベス1世の時代になっていくとイングランドの主力産業であった毛織物産業が活発化。1600年に東インド会社が設立され、インドをはじめとした世界各国の貿易をイングランドが牛耳っていくようになります。ちなみにシェイクスピアが現れ多くの戯曲を残したのもこの頃です。
その後1603年にエリザベス1世が死去するとテューダー朝は断絶し、かわりにスコットランド国王であったジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位したことによってステュアート朝が成立していくことになります。
さらにこのことによってこれまでは別々の国王であったイングランドとスコットランドは同じ王様が治める国家である同君連合体制となったのです。
さらには17世紀に入るとアメリカへの進出が本格化。いわゆる13州植民地を形成していくようになり、イギリス本国からたくさんの植民者が現れるようになります。
一方で国内の方はというと徐々に混乱の情勢となっていき、ジェームズ1世は王権神授説と呼ばれる王というものは神からの授かりものだとして絶対王政を主張していくようになりました。
イングランドには議会というものが昔から存在しており、さらにはジェームス1世がピューリタンを次々と弾圧していくと国王と議会が対立することになったのです。これがいわゆる清教徒革命の始まりでした。この清教徒革命によってチャールズ1世がクロムウェルに敗れたことによって処刑。清教徒革命によって王政が廃止されてしまい、イングランドでは共和制が敷かれることになります。
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王政復古と名誉革命
こうしてイングランドでは共和政が敷かれることになりましたが、クロムウェルは王様派が隠れているとしてアイルランドやスコットランドに侵攻。さらにはオランダの船を出入り禁止にするようになったことによって戦争が次々と起こってしまうことになります。
さらにはクロムウェルが市民の生活に干渉したり、独裁政治をしていったことを受けて市民の不満が高まっていくようになりました。そしてクロムウェルが死ぬとフランスに亡命していたチャールズ2世が王位に即位して王政復古。クロムウェルの親族は大逆罪となってしまい虐殺されることになりました。
チャーチル2世はチャーチル1世になりたくはないとして議会と協力体制を組んでいましたが、次のジェームズ2世の時代にはカトリックに復古しようとしたり議会の議決を無視したりするなど絶対王政の時代に逆戻りしようとします。
これを受けて議会は1689年に王を退位させ無理矢理な形でオランダに追放。そのかわりにオランダからウィリアム3世を即位させました。
いわゆる名誉革命と呼ばれるこの革命によって議会政治が確立。議会は国民の生命や財産の保護を定めた権利の章典を制定しました。
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大ブリテンの誕生
ウィリアム3世が亡くなるとその妻の妹であったアンが女王に即位することになります。
アン女王はスペイン継承戦争に参戦してスペインのジブラルタルを獲得。
北アメリカの植民地ではフランスと植民地戦争を繰り広げることになります。
さらにはアン女王の時代に入ると同君連合になっていたイングランド王国とスコットランド王国を併合。今のイギリスの原型となる大ブリテン王国が成立しました。
さらにはアン女王の次の国王であるジョージ1世の時代には立憲君主制が確立していくようになり、国王は存在しているんだけど政治の実権は議会が持つようになる議会政治がか確立。「国王は君臨すれども統治せず」という原則が成立したのでした。
さらには議会政治の進展が進んでいくについて政党が内閣を組織して政治を行う責任内閣制が確立されていくようになり、トーリ党とホィッグ党の二大政党制が出来上がりました。
産業革命
こうしてスペインに勝利してスペインに変わる世界帝国を築き上げていくようになったイギリスでしたが、イギリスが世界の大国となった最大の原因が18世紀の中頃から起こった産業革命でした。
イギリスでは毛織物産業が元々から発展していたのでイギリスでは軽工業に関連する機械が次々と開発。特に綿織物に使う飛び杼の開発によって次々と作業を効率化していく機械が発明されていき、生産量は一気に増えていくことになります。
さらには蒸気機関という蒸気を使ってさまざまな機械や汽車などを開発。工場による大量生産が可能となり、さらには農業革命で大量に出現することになる労働力を使っていき、石炭を発掘する炭鉱業や貿易の面で活躍していきます。
イギリス国内では工場で生産した製品を海外に輸出するために運がや鉄道が施設。1825年には最初の鉄道がリバプール – マンチェスター間に施設されることになります。
こうしたイギリスの産業革命は世界の工場と呼ばれるほどの大国となっていきました。イギリスは生産した製品を世界に輸出していきその利益をため込んでいきさらに機械がの購入を行いさらに生産量を増やしていく循環を行なっていくことになります。
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