日本の歴史

【5分で解説】封建制とは?ヨーロッパで何があった?なぜ崩壊した?封建社会をわかりやすく解説!

歴史の書物を読んでいると、「封建制度」という言葉を目にすることがありますね。では「封建制度とは何?」と聞かれたら、何と答えたらよいのでしょう。殿様や将軍や王様が家来を従えて国を治めている感じかなぁ……なんて、なんとなくふわっと理解しているだけで詳しくは知らない、という方も多いのではないでしょうか。そこで今回は「封建制度」という言葉に着目。成り立ちや歴史、国による違いなどに関するわかりやすい解説をお届けします。

1. 起源は中国?封建制度の成り立ちと歴史

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まず、封建制度の始まりについて見ていきましょう。日本で「封建制」というと、鎌倉幕府や江戸幕府の政治体制が頭に浮かぶと思いますが、広義にとらえると、封建制度の始まりは数千年前、紀元前の古代時代までさかのぼることになります。そもそも「封建」とは何なのか、封建制度の成り立ちについて探ってみましょう。

1.1 意外と難しい……「封建」とはどういう意味?

封建制度(ほうけんせいど)とは、一口に言うと「主君が家臣に土地を与え、家臣たちがその土地に暮らす庶民たちを統治する政治制度」のことです。言葉で説明すると非常にフワッとした感じになりますが、世界の歴史を振り返ってみると、決して特別なものではありません。中世社会では封建制度はごくごく当たり前の政治形態であったと言えるでしょう。

「封建(ほうけん)」とは、「封土を分けて諸侯を建てる」という意味を持つ単語です。「封土(ほうど・ふうど)」とはもともとは墓など人工的に盛り土をした土地を指した言葉ですが、この場合は「家臣たちの軍役や奉仕に対して主君が与える土地」のことを指します。

古代や中世時代など貨幣が流通していない時代、物事の評価や価値の基準は主に「土地・領地」主君に尽くし、その対価として土地を得るという支配形態のことを「封建制」と呼んでいます。

1.2 封建制の原型・周王朝の「封建制度」とは?

封建制の原型は、紀元前1050年頃、中国大陸に誕生した周という統一王朝の政治制度に見られます。

周王朝では、主君である周王は、家臣や有力豪族たちを「諸侯」として召し抱え、それぞれに土地とその土地に住む人民の支配権を与えました。諸侯に与えられた土地は「国」や「邑」と称され、「諸侯を封じて国を建てる」という意味で「封建」という言葉が誕生したと考えられています。ただ、周王朝の場合は、周王と諸侯は血縁関係(本来の血のつながりがない場合も含む)にあり、氏族のつながりを基盤としたものだったそうです。

土地を提供された諸侯は、その土地を管理し人民たちに農作物などを収穫させ、主君に対して貢物を納めたり、主君を守るために兵役についたりします。周王朝より前に存在していた殷王朝にも、君主と諸侯のような関係があったようですが、土地の支配や領主といった概念があったかどうか、はっきりとはしていません。

1.3 中国封建制度の崩壊と郡県制・郡国制

中国の歴史を紐解くと、社会を構成する支配形態の一種として「封建制」「郡県制」「郡国制」という言葉が登場します。この3つは、中国の封建制度の歴史と深い関りがあるので、詳しく見ていきましょう。

時代が少し進み、周王朝の力が弱まると、諸侯が力をつけて独立。中国大陸は小国が乱立する「春秋・戦国時代」へと入っていきます。人気漫画「キングダム」の舞台として近年注目されている時代です。血縁関係によって固く結ばれていた周の封建制度もここで崩壊。長い戦乱を経て、秦の始皇帝が統一王朝を築くと、領地の制度も新たな局面を迎えます。

周の時代は、血縁によるものとはいえ、基本的には、諸侯がそれぞれの国を治める地方分権制。これに対し秦の始皇帝は、中央集権制を強く望みます。新しい主君の下では、封建制の復活とはなりませんでした。始皇帝は国内をいくつかの郡(36郡→48郡)に分割。各郡をさらに細分化し、県と呼ばれる地域に分けて皇帝が任命した役人を配属し統治する方法を進めます(郡県制)。

1-4. どう違う?中国の封建制と郡県制・郡国制

改めて見てみると、封建制も郡県制も、土地を介した主従関係に変わりありません。一体どう違うのか、どれも同じじゃないの?と思われがちですが、郡県制と呼ばれるこの統治制度は、封建制度とは異なるものと考えられています。

盤石の体制と思われた郡県制でしたが、地方の反乱が絶えず、秦は滅亡次に統一王朝となった前漢では、郡県制と封建制の融合・結合を模索。この体制を郡国制と呼びます。その後も、新しい統一王朝が誕生するたびに、土地の統治の仕方は変化。基本的には郡県制を強く推す王朝が主流だったようですが、断片的に封建制をよしとする声も上がったようです。

中国大陸のような広い領土を統治するには、封建制にも郡県制にも、それぞれ長所短所があり、どちらがよいか一概には言えない……ということだったのかもしれません。

2. 武家社会とともに歩む・日本の封建制度

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古代中国の「封建制度」は、主従の間に血縁関係があるなど、ヨーロッパの封建制度と異なるものとして論じられることが多いようです。では日本の場合は?日本にも、平安時代後期頃から封建制度と見られる政治体制が整いつつあったようですが、どのような進化を遂げていったのでしょうか。早速、日本の封建制度について見ていきましょう。

2-1. 「御恩と奉公」日本の封建制度の根幹にあるもの

日本の封建制度は平安時代中後期、武士の誕生とともに発展していきます。

それまでの日本は、朝廷が国内の領地を郡に分け、役人(国司)が各地域に派遣されてその土地の統治を行うスタイルをとっていました。天皇を中心とした中央集権体制です。武士の起源にはいくつかの流れがありますが、こうして地方に派遣され地域に根付いて力をつけていった役人が武士となるケースも少なくありませんでした。

地方の土地を守るためには武装が必要。田畑や農作物、農民たちを守ってきた地方役人たちが地元民たちの信頼を得て力を付けのし上がり、武士という形態に変化していったのです。

そして、武士の間には「御恩と奉公」という関係が少しずつ築かれていきました。主君に忠誠を誓って戦などで武勲を立て、功績に対して領地を賜る、というもの。ただ、平安時代の頃はまだ、一族血縁内で結ばれることが多く、封建制と呼べるほど強固な関係でもなかったようです。

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