ドイツヨーロッパの歴史神聖ローマ帝国

バルト海沿岸に騎士修道会国家を作った「ドイツ騎士団」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

バルト海に面するポーランド北部の都市マリボルグ。かつて、この町はドイツ騎士団領の首都でした。現在も残るマリボルグ城(マリエンブルク城)は世界遺産にも登録された美しい城です。十字軍時代に結成されたドイツ騎士団は、この地を拠点にドイツ騎士団国家を形成。リトアニア=ポーランドと激しい戦いを繰り広げました。今回は、ドイツ騎士団の歴史について、元予備校講師が分かりやすく解説します。

十字軍運動とドイツ騎士団

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11世紀、イスラム勢力、とくにセルジューク=トルコはビザンツ帝国を圧迫し、小アジアを奪いました。窮地に陥ったビザンツ帝国はローマ教皇に援軍を要請します。1096年、ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより十字軍が始まりました。聖地巡礼者が増える中、巡礼を守ることを主目的として宗教騎士団が創設されます。ドイツ騎士団も、そうした宗教騎士団の一つでした。

聖地エルサレム(イェルサレム)の奪還を目指した十字軍運動

ビザンツ皇帝から救援要請を受けたローマ教皇ウルバヌス2は、クレルモンで公会議(宗教会議)を開催します。ウルバヌス2世は、異教徒であるイスラム教徒の手から聖地エルサレムを奪還すべきだとして、十字軍の派遣を提唱しました。

教皇の呼びかけに応じたフランスやドイツなどの諸侯・騎士たちは、胸に十字架をあしらった軍装に身を固め、中東へと赴きます。東地中海のイスラム勢力は統一されていなかったので、十字軍に敗退。十字軍は聖地エルサレムと東地中海沿岸地域を占領します。

このとき、十字軍が樹立したエデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、イェルサレム王国は、十字軍国家とも言われますよ。聖地エルサレムの奪還はキリスト教諸国を狂喜させ、多くの巡礼が聖地を訪れるようになりました。

十字軍時代の三大宗教騎士団

12世紀前半、聖地エルサレムに向かう街道を警備する小さな騎士団が創設されました。のちに、エルサレム神殿跡地を与えられたこの騎士団は、テンプル騎士団と呼ばれるようになります。これが、大規模な宗教騎士団の始まりですね。

宗教騎士団の団員は、騎士であると同時に修道士です。彼らは、聖地エルサレムや巡礼たちを守ることを主な任務とし、異教徒との聖戦に従事しました。

エルサレムに作られた聖ヨハネ病院がもととなった宗教騎士団が聖ヨハネ騎士団です。彼らは医療と城郭建築に精通し、十字軍国家の防衛でも活躍を見せました。

そして、三大宗教騎士団の最後に紹介するのが、今回取り上げるドイツ騎士団。ドイツ人が主体の宗教騎士団で聖地エルサレムの警備も行いましたが、彼らは中東よりもドイツを拠点とし、東ヨーロッパで活躍しました。

ドイツ騎士団の成立

ドイツ騎士団はカトリック教団が公認した宗教騎士団です。正式な騎士修道会名は、ドイツ人の聖母マリア騎士修道会ですね。別名、チュートン(テュートン)騎士団ともいいますよ。白いマントに黒い十字架を描いた軍装は、なかなかに勇壮なものです。

第三回十字軍のとき、北ドイツ出身の商人がつくった野戦病院がドイツ騎士団の母体となりました。騎士修道会としてのドイツ騎士団が出来たのは1198年。騎士団のトップは騎士団総長とよばれます。

医療中心だったドイツ騎士団は、サラディンの登場で攻勢を強めるイスラム教徒に対処するため、軍事に重きを置くようになりました。ドイツ騎士団の地位が向上したのは第4代騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァの時代です。

ヘルマンは神聖ローマ皇帝とローマ教皇の橋渡し役を務め、双方から高く評価されました。結果的に、ヘルマンの活躍がドイツ騎士団の地位を高めたというわけですね。

東欧に成立した騎士団国家、ドイツ騎士団領

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中東で十字軍が行われていたころ、ドイツ人を中心としたキリスト教徒は、プロイセンやリトアニアなどスラヴ人が住む地域を征服する東方植民を行っていました。ドイツ騎士団も東方植民に参加し、プロイセンの地にドイツ騎士団領を成立させます。ドイツ騎士団はロシア方面に領土を拡大しようとしましたが、氷上の戦いに敗れロシア進出を断念。バルト海沿岸の交易を抑えることで騎士団を発展させました。

ドイツ人の東方植民とドイツ騎士団領の成立

中東方面で十字軍が行われていたころ、イベリア半島ではイスラム教徒から領土を奪還する国土回復運動(レコンキスタ)が行われていました。レコンキスタと並行して東欧で行われたのがドイツ人の東方植民です。

東方植民が盛んに行われたのは12世紀のこと。エルベ川以東に進出したドイツ人たちは、ブランデンブルク辺境伯、マイセン辺境伯、オーストリアにできたオストマルクなどが代表的な植民国家です。これらに並んでバルト海沿岸を征服したのがドイツ騎士団でした。

ドイツ騎士団のバルト海沿岸(プロイセン地方)進出のきっかけは、非キリスト教徒のプロイセン人をキリスト教化しようとしていたポーランドのマゾヴィア公コンラート傭兵としてドイツ騎士団をプロイセンに招聘したことですね。

中東の十字軍国家がイスラム教徒に滅ぼされた後、ドイツ騎士団はバルト海沿岸のプロイセン人を征服し、ドイツ騎士団領を成立させます。ドイツ騎士団領はポーランド北部からバルト三国に及ぶ広大な領土を所有。近隣の異教諸国を攻撃します。

アレクサンドル・ネフスキーに東方進出を阻まれた「氷上の戦い」

東方植民により根拠地を獲得したドイツ騎士団はさらなる領土拡大を図ります。13世紀前半、ドイツ騎士団はハンガリー王国に進出しましたが、領土拡大を果たせませんでした。その後、バルト海北東部のロシア方面に進出します。

ロシアでドイツ騎士団を迎え撃ったのはノヴゴロド公のアレクサンドルでした。アレクサンドルは1240年に、ネヴァ川の戦いでスウェーデン軍に勝利。ネフスキー(ネヴァ川の勝利者)とよばれるようになりました。

1242年、今度はドイツ騎士団がノヴゴロドに攻め込んできます。アレクサンドルは凍結したチュド湖を舞台とした氷上の戦いでドイツ騎士団を撃破。ドイツ騎士団の北東ロシア進出が阻止されました。以後、ドイツ騎士団はバルト海周辺の確保やリトアニア攻略に専念します。

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