
フランス革命前夜・バスティーユで何が起きたのか

image by iStockphoto
バスティーユ牢獄とはフランスの国立刑務所の1つ。国立刑務所は他にもいくつかありましたが、1789年7月14日、民衆はこの牢獄の周辺に集結。革命後に解体され、現在はもう存在していませんが、強固は石積みの壁を持つ巨大な建造物だったそうです。なぜ民衆はバスティーユ牢獄を襲撃したのでしょうか。フランス革命前夜の様子と合わせて追いかけてみましょう。
バスティーユ牢獄とは?いつ頃建てられたもの?
バスティーユとは、現在のフランス首都パリの4区、11区、12区に跨るエリア。現在は広場になっており、中央には1833年に建てられた「7月の円柱」と呼ばれるモニュメントがあります。
中世時代のパリは、町全体が城壁で守られた城郭都市でした。バスティーユはその城郭の一部。はじめから牢獄として建てられたものではなく、町の東のサン・タントワーヌ門を守るために築かれた要塞だったのです。
建設されたのは1370年。敵に攻め込まれた際の、当時の国王・シャルル5世の避難場所という重要な役割も担っていました。
建物は現存していませんが、8つの巨大な塔と高さ30mの分厚い城壁で構成された巨大な建造物だったそうです。
周囲は幅20m以上もある堀に囲まれ、入り口は跳ね橋が2か所あるだけ。難攻不落という言葉がぴったりの巨大要塞であったと伝わっています。
はじめは「要塞」、いつから「牢獄」に?
時代が進み、17世紀。パリの人口が増えたことや大砲の威力が増したことなどから、バスティーユは要塞としての役割を終えます。
この巨大建造物を「牢獄」として使用することを決めたのは、ルイ13世の宰相・リシュリューでした。彼はここを、政治犯などを収容する監獄へと変えていきます。
ルイ14世の時代になると、王政にたてつく者も収容されるようになりました。ただ、どういう犯罪者が収容されたのか公表されなかったため、周囲の住民たちの間で「恐ろしい罪人が大勢いるらしい」という噂が立つこともあったようです。
分厚い城壁や守りの堅い跳ね橋という外観から、凶悪犯罪者が大勢収容された恐ろしい場所なのでは?と想像しがちですが、実際には、国王を襲撃しようとした者や謀反を企んだ役人など国事犯が中心。囚人たちはそこそこいい暮らしをしていたと伝わっています。
こちらの記事もおすすめ

絶対王政を確立したのになぜか影が薄い「ルイ13世」このフランス国王をわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
悪しき専制政治の象徴・バスティーユ牢獄
バスティーユ牢獄はフランス国内のあちこちにある牢獄のひとつにすぎませんでしたが、王政に異議を唱える者が収容される場所でもありました。
そういう場合、収監時に裁判などは行われません。王政に対して不満を漏らすと、ある日いきなり逮捕され、牢屋に放り込まれる……。いつしかバスティーユは、貧しい民衆を苦しめる専制政治(君主や支配者が独断で進めてしまう政治)の象徴となっていました。
1789年7月14年、民衆はなぜバスティーユ牢獄を襲撃したのでしょうか。
この日、貧しさにあえぐ民衆によって、パリの町のあちこちで激しい暴動が起きていました。
民衆は自分の身を守るため、武器や弾薬を手に入れようと奔走。そんな中、数日前にバスティーユ牢獄に武器弾薬が運び込まれたらしい、という情報を入手します。
当初の目的は襲撃ではなく、自衛用の弾薬を手に入れるため。しかし、バスティーユに詰めていた司令官が弾薬の受け渡しを拒否し続けたため、暴動へと発展していったのです。
もちろん、専制政治の象徴としてバスティーユが以前から民衆に疎まれていたから、という点も見逃せません。ただ、最初は武器弾薬の受け渡しの交渉のためであり、バスティーユ側が弾薬を渡していたら……。もしかしたらフランスの歴史が大きく変わっていたかもしれません。
何が起きた?バスティーユ襲撃事件の流れとその後

image by iStockphoto
長年貧困に苦しみ続けた民衆の怒り。その矛先が向けられたのが、政治犯などを収容する謎めいた監獄「バスティーユ牢獄」でした。バスティーユの襲撃事件を皮切りに、フランス全土は革命の渦へと飲み込まれていきます。襲撃当日、パリはどんな様子だったのでしょうか。フランス革命の時代背景とともに詳しく解説します。