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想像以上に大きい!古代ローマ遺跡「コロッセオ」の歴史と魅力をわかりやすく解説

ローマのコロッセオを間近で見た人のほとんどは「想像以上に大きかった」と感じると言います。大きいということは承知していても、それでも目を見張るほどの大きさで、度肝を抜かれたという人が多いのです。イタリア・ローマ屈指の観光名所であり、古代ローマ建築の最高峰とも称されるコロッセオ。いつ頃、何のために造られた建造物なのでしょうか。人気スポット・コロッセオの歴史と魅力に迫ります。

基本情報:コロッセオはどこにある?大きさは?

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ローマは「永遠の都」とも称される、2000年以上続く都市。街中に様々な古代遺跡が点在し、ローマの人々は歴史と共に日々の暮らしを送っています。そんな魅力たっぷりのローマの街中にあって、年間400万人以上の観光客が訪れる名所がコロッセオです。どんな建造物なのか、まずはコロッセオの概要をご紹介します。

ローマ歴史地区に鎮座する世界遺産

コロッセオ(コロッセウム)は1980年「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂」という名称で世界遺産に登録されました。

ローマ歴史地区とは、古代ローマの歴史的な遺産が数多く残る地区のこと。コロッセオの他にも、フォロ・ロマーノ(ローマ帝国の政治や産業の中心だった広場)やコンスタンティヌスの凱旋門、歴史ある3つの大聖堂などが含まれています。コロッセオは数々のローマの遺跡の中でも最も大きく、最も存在感のある建造物。

「ローマは一日にしてならず」「すべての道はローマに通ず」など数々のことわざにも登場する「永遠の都」ローマ。現代のローマの街中を歩いていると、そこかしこに石造りの建物が当たり前のように残っていて、およそ2000年前からずっと続いている街なのだということを肌で感じることができます。

そんなコロッセオは、ローマ市内を走る鉄道のターミナル・テルミニ駅から2kmほどの距離。バスや地下鉄、トラムを利用するのがおすすめですが、周辺には数多くの遺跡や名所が点在しているので、のんびり散策を楽しみながら徒歩で移動する観光客も多いようです。コロッセオはとても大きく目立つので、道に迷うことはないでしょう。

2000年前に建てられた「巨大なもの」

コロシアム(Colosseum)の語源にもなり、競技場や闘技場そのものを指す言葉として定着しているコロッセオ。間近で見るとその大きさに圧倒され、現代人はまだ2000年前のこの建造物を超えることができていないのではないか……とさえ感じてしまいます。

コロッセオは帝政ローマ期にあたる紀元後80年に建造されました。

真下に建つと見上げるほどの巨大さ。高さはおよそ48m、長径が188m、短径は156mにも及ぶ均整のとれた美しい楕円形をしており、楕円の周囲は520mを超えるという、現代建築でもそうそう実現が難しい大きさを誇っています。

コロッセオという名前の由来についてはいくつかの説があるそうです。建造当時は、建設を命じた皇帝にちなんで「フラウィウス円形闘技場」という名がつけられていました。しかし人々はなぜか、正式名称ではなく「コロッセオ」と呼んでいたのだそうです。

理由は諸説あるようですが、コロッセオという言葉には「巨大な物」という意味があるから、という説が有力。この大きさを見れば、なるほど納得です。

5万人収容可能な円形スタジアム

コロッセオは時の権力者の命によって建てられた円形闘技場です。ここで日々様々な競技が行われ、ローマ市民が集い、熱狂したと考えられています。

コロッセオは地下・アリーナ・観客席の3つから構成されており、観客席は4階部分まで。客席は5万席以上あったのだそうです。

東京ドームの収容人数がおよそ5万5千人ですから、満席御礼の時のジャイアンツ戦と同じくらいの人を収容できたことになります。

このコロッセオでは、様々な競技が行われていました。

人々が熱狂していたのは、主に「流血」や「死」にかかわる競技だったのだそうです。猛獣と戦士との戦い、剣闘士同士の戦い、罪人の処刑……。数千人にも及ぶ人の命がここで失われたといわれています。

時には遠方から像やライオンなどの動物を連れてきたり、アリーナ全体に大量の水を入れて船を浮かべ、海戦を再現して見せたこともあったのだそうです。

歴史:コロッセオはいつ頃何のために建てられた?

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コロッセオが闘技場であったことはわかりましたが、ではなぜ、このような場所に闘技場など建てることになったのでしょうか。次に、巨大建造物を建てるに至った経緯について、時代背景なども含めて解説します。

コロッセオが誕生したローマ帝政期とは?

コロッセオが建てられたのは紀元後80年。およそ10年ほどの年月をかけて完成したといわれています。

この少し前のユリウス・クラウディウス朝の頃、ローマの内政は決して落ち着いた状態ではありませんでした。キリスト教を迫害したことで知られ、暴君として後世になお残す皇帝ネロが、自分にたてつく近親者や側近たちを次々と排除し、好き放題始めたことから、ネロへの不満が高まっていたのです。

追い打ちをかけるように紀元後64年に大火災(ローマ大火)が起き、国内はさらに大混乱。しかし国のトップでは内乱や小競り合いが続き、復興もままなりません。

ネロを皇帝の座から引きずり下ろすべく、各地で反乱が勃発。ネロに代わる皇帝を擁立しようと軍隊や政治家たちが暗躍します。69年は「四皇帝の年」と呼ばれ、ネロを含む4人の皇帝がけん制しあう状態に。ついにネロは自ら命を絶ち、三皇帝のうちの一人、ウェスパシアヌス帝が即位することになりました。

市民の不満解消が建設の目的だった?

新しい王朝の誕生で落ち着いたと思われたローマ帝国でしたが、内乱の爪痕は予想以上に深いものでした。

ネロ皇帝の散財への不満や不信、なかなか進まない復興作業など、ローマ市民の怒りは爆発寸前のところまで来ていたのです。

街の復興には、財政の立て直しが急務。これ以上暴動など起こされたら大変です。そのためにも何とか市民の怒りを抑え、ガス抜きをしなければなりません。新しく即位したウェスパシアヌス帝は、しっかり税金を集めつつ市民の怒りの矛先を他に向ける方法を考えなければなりませんでした。

そこで考え付いたのが、新しい娯楽施設の建設です。当時すでに、数千人収容できるホールはいくつか存在していましたが、もっと大きく、もっと本格的に格闘技を観戦できるスタジアムの建設が求められました。

コロッセオの建設計画は不安定な内政の立て直しの旗印として、急ピッチで進められていったのです。

コロッセオの完成にローマの再生を夢見ていたウェスパシアヌス帝ですが、残念ながら完成の前年に死去。コロッセオの雄姿を見ることは叶いませんでした。

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