イギリスヨーロッパの歴史

世界にまたがる大帝国「イギリス」の歴史はどんな?わかりやすく解説

イギリスの社会の変化

こうした工場の増加と労働者の増加によって人口の流れも大きく変わっていくことになります。元々農村部にいた人が労働者として工業都市に集中することによって都市化が進展。

さらには都市化した地域には学校や住宅が建設されていくようになり、農村部で行われていたことが都市に集約されていくようになります。

さらには産業革命によって工場を所有している資本家たちが次々と出現。資本家たちは原料を求めてインドなどの地域に進出。さらには労働や市場を求めて世界に進出していくようになり、これがのちのイギリスの帝国主義へと繋がることになるのです。

また産業革命が起こっていくにつれて労働者の問題も顕著なものに変わっていくことになります。例えば産業革命によって仕事を失うことを恐れた人たちによってラッダイト運動がイギリス各地で発生。

労働者の仕事は劣悪なものになってしまい、ロンドンは工場の煙によって青空が見えなくなってしまったのです。

世界の大帝国へ

イギリスは産業革命の産物を世界に輸出するために19世紀以降世界各地に進出していくことになります。まずイギリスは隣国であるアイルランドを征服。これによってイングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランドからなるグレートブリテン及びアイルランド連合王国の成立しました。

さらにはフランスとの植民地戦争もし烈に行われていくようになっていき、いわゆる第2次百年戦争と呼ばれる争いが起こることになります。

さらにスペイン継承戦争の講和条約であるユトレヒト条約で、ジブラルタル、ミノルカ島、ニューフアンドランド、アカディア、ハドソン湾地方を獲得。太平洋による三角貿易の権利を獲得。七年戦争の講和条約である1763年のパリ条約で、アメリカ大陸にカナダなどの広大な領土を獲得。さらにインドの混乱に乗じてインドを実質的な植民地にすることにもなります。さらに清とはアヘン戦争によって香港の割譲を含めた南京条約が締結。中国の膨大な市場を手に入れることに成功しました。

とくにヴィクトリア時代にはいるとスペインやオランダといった大航海時代の植民地帝国が次々と脱落したことによってイギリスの一人勝ち状態に。

アフリカ・アジア・オセアニアにまで勢力を伸ばすまさしく『日の沈まない国』となり、その繁栄は古代ローマ帝国になぞらえてパクス・ブリタニカ(イギリスの平和)と言われることとなります。

第一次世界大戦前のイギリス

こうして世界の大帝国として君臨することになったイギリスでしたが、19世紀後半になるとアメリカやドイツといった新興国が工業力でイギリスを追い越すことになります。

特に19世紀に統一したばかりのドイツ帝国は海外に対して急速に植民地を得ようとしてアジアやアフリカなどに進出を開始。
この当時イギリスは植民地の担当であったローズのもとで3C政策を行なっていたのですが、ドイツはこれに対抗する形で3B政策を展開していくようになりました。

植民地の関係とそれぞれの思惑の違いからイギリスとドイツの関係は急速に悪化。イギリスはドイツに対する対抗策としてフランスと英仏協商を、ロシアと英露協商を結んで三国協商を完成。一方でドイツはオーストリア、イタリアの三国同盟を結成しており、これが19世紀初頭のヨーロッパ世界の枠組みとなり、第一次世界大戦の原型となっていくのです。

第一次世界大戦のイギリス

1914年、サラエヴォ事件によってオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子であったフランツ・フェルディナント皇太子が暗殺。このことに激怒したオーストリア帝国がセルビアに侵攻を開始したことによってヨーロッパの大国同士が争う第一次世界大戦に突入しました。

イギリスはこれまで職業軍人のみでやりくりしていましたが、この第一次世界大戦ではイギリスは初めて徴兵制を導入。18歳から41歳までの独身男性はすべて戦場にかり出される体制となりました。その結果イギリス本国内では670万人、イギリス帝国全土で919万人が動員されることに。

4年間にも及ぶこの戦争でイギリスは100万以上の兵士が戦死。さらにイギリスはこの戦争に大量の戦費を注ぎ込んでしまい、これがのちのイギリスの没落へと繋がっていくことになるのでした。

落ちていく大帝国

第一次世界大戦ではイギリスは戦勝国となりましたが、その代償は重いものとなりました。

まず、この戦争で大量の人員と戦費をつぎ込んでしまったためイギリス経済は疲弊。そのかわり新しく台頭していたアメリカによって助けられる形となってしまい、ここから世界の大帝国の座はイギリスからアメリカへと渡っていくことになります。

また、植民地の経営も第一次世界大戦前後から変わっていくようになり、1867年にカナダにて自治権が認められることとなるとイギリスの植民地が次々と自治権を獲得。特にアイルランドでは第一次世界大戦の最中に反乱を起こし1922年に北アイルランドを除くほとんどの地域が独立。

さらにインドといったアジアの独立運動が激化していくようになると本国イギリスは1926年に全ての国々をイギリスと対等の立場に置くことが決定。ウェストミンスター憲章が発布されたことによってこれまでの大英帝国からイギリス連邦へと変わっていくことになりました。

第二次世界大戦前の宥和外交

しかし1929年のアメリカで起こった世界恐慌は立ち直ろうとしていたイギリス・フランスに直接的に波及することになります。

イギリスは連邦を敷いていたこともあってかブロック経済という形でポンドが海外に流れないような経済を敷いていくようになりました。

その一方で1930年代にはドイツでヒトラーのナチスが台頭。1933年にヒトラーが首相に就任してしまうとドイツは領土拡張とヴェルサイユ体制打破を叫び、国際連盟を脱退。1935年には再軍備を宣言し、さらには1936年にロカルノ条約を無視してラインラント進駐を強行。ラインラントに進駐を許してしまうとこれまで一生懸命作ってきたヴェルサイユ体制は崩壊してしまう可能性が出てしまいます。しかし、戦争の恐れがあるとしてこのラインラントの進駐は黙認しました。

1936年にスペイン内戦が始まっても不干渉政策をとり、ヒトラーがオーストリア併合を実行した時も何も言わず、さらにはチェコスロヴァキアに対しズデーテン地方の割譲を要求してきたときも当時のイギリス首相であるネヴィル・チェンバレンはその要求を容認。

これはドイツが当時敵対し始めていたソ連の防波堤になってくれると考えてものものであり、ズデーテンぐらいドイツに渡してもなんとかなると考えてのことでした。

イギリスはいわゆる宥和外交によってヒトラーのそれ以上の領土要求を止めようと考えていたのです。そしてミュンヘン会談によってイギリスはドイツのズデーテン割譲を決定。イギリスでは平和が守られたとして大歓迎の嵐となりましたが、これが原因でヒトラーの侵略的拡大は増大していくことになり、第二次世界大戦の引き金となっていくのです。

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