イギリスヨーロッパの歴史

世界にまたがる大帝国「イギリス」の歴史はどんな?わかりやすく解説

ヨーロッパの島国イギリス。今でも日本から観光に行く人は多くおり、イギリスの言語である英語は今や日本人の必須になりつつあります。 しかし、そんなイギリスはどうして言語が世界的なものとなっていったのでしょうか?その謎を解くためにはイギリスの歴史を見ていく必要があります。 今回はそんなイギリスの歴史について解説していきたいと思います!

イギリスの簡単な概要

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ところで、イギリスの正式名称はご存知ですか?イギリスという名称は戦国時代ごろにやってきたポルトガル人がイギリスのことを日本人に伝えたことがそのきっかけとなっているのです。実際の名称は「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(UK)」日本語に訳すと「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」となります。

イギリスという国はイングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの4つの国が連合している状態となっており、それが現在までも続いているのです。

紀元前のイギリス

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イギリスが位置しているグレートブリテン島には紀元前9世紀ごろからケルト系の民族が侵入してきて、そのケルト民族が文明を作っていったと考えられています。イギリスも日本やその他の国とは例外ではなく、石器を使用していましたが、イギリスで特に有名なのがイギリスの世界遺産としても有名なストーンヘンジ。

ストーンヘンジは一体誰が何のために作ったのかは、はっきりとはわかっておらず謎の多い遺跡のひとつです。一説には権力者の墓や祭壇という説もありますが、それを示す証拠がない以上、きちっと断定することはできません。

その謎の多い状況から中世の時代には伝説のアーサー王の伝承にもなり、イギリスの人々に伝えられているのです。

ローマ軍による侵攻

ストーンヘンジの時代を経てイギリスの歴史に大きな変化がやってくるのは紀元前60年ごろ。この頃ヨーロッパで急激に勢力を伸ばしていたローマ帝国がグレートブリテン島に侵攻を開始。いわゆるブリタニア侵攻が始まったのです。

紀元前55年にフランスあたりのガリア戦線を延長としてユリウス・カエサルが侵攻しましたがドーバー海峡に阻まれ失敗。

しかし、帝政に入りこのころのローマ皇帝クラウディウスがブリテン島の大部分を征服した。子の征服された地域はブリタニアとよばれ、その中心地にはロンディニウム(今のロンドン)が建設されていくようになります。

ローマ軍はブリタニアへ侵攻したことによってイギリスにはこれまでのケルト文化に加えて高度に発展したローマ文化が加わっていくようになりました。

ローマの撤退と七王国時代

ローマの支配は征服によってブリテン島にも及んだとはいえ、ローマの属州になったことによってブリタニアではローマに対する反乱がたびたび起こるようになっていきました。

さらには395年にローマ帝国は東西に分裂。ブリタニアは西ローマ帝国の管轄地となりましたが、この頃になると西ローマ帝国ではゲルマン民族の大移動によってローマ帝国は属州の管理維持ができなくなっていたのです。その結果分裂して直後である409年に西ローマ帝国はブリタニアを放棄。ローマの支配は終結したのでした。

その後、西ローマ帝国は476年に崩壊したことによって旧西ローマ帝国領ではゲルマン民族による国家が大量に創設されていくように。イギリスでも例外ではなく、ゲルマン民族の一派であったアングロ=サクソン人がブリテン島に移住するようになっていき、ケルト民族とアングロ=サクソン人が同化していくようになりました。

(ちなみに、グレートブリテン島と言われるようになったのはこの頃だと言われています。)

その後、グレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人によってノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、エセックス、ウェセックス、ケント、サセックスなどの7つの王国とその他の小国に分裂。いわゆる七王国時代が幕を開けたのです。

ヴァイキングの侵入とイングランドの統一

波乱の戦争の時代に一気に台頭してきたのはイングランドの西側にあったウェセックス王国でした。

ウェセックス王国はキャドワラ王の時代に東へとどんどん進撃。サセックスやケントといった他民族を次々と撃破していきながらフランク王国と渡り合っていき、エグバートの時代にイングランドの統一を達成されました。

こうして七王国時代は終わりを迎えましたが、他民族の侵略はこの頃にもまだ続いており、特に北欧を拠点としていたヴァイキングの活動がこの頃から活発化していくようになります。

特に、ヴァイキングの一派であったデンマークのデーン人はイングランドにたびたび侵攻。

イングランド王のアルフレッド大王はデーン人の侵略を果敢に破っていきますが、彼が亡くなると1016年にデンマークのクヌートによってイングランドは征服。アングロサクソン人の王朝は崩壊し、そのかわりデーン人によるデーン朝(北海帝国)が成立したのでした。

その後、ヴァイキングの侵略が一通り終わるとイングランドは再びアングロサクソン人の王朝が成立しましたが、この頃に入るとイングランドは弱体化の道を歩んでいたのです。

ノルマンコンクエストの時代

アングロサクソンによる王朝が復活したもの、ヴァイキングの信仰を受けたことでイングランドは弱体化しましたが、それを狙ってノルマンディー公であったウイリアムのイングランドに対する干渉はますます強くなっていきました。

エドワード懺悔王が嗣子のないまま死亡するとノルマンディー公ウィリアムは1066年にドーバー海峡を渡ってイングランドに侵攻開始。ヘースティングスの戦いで勝利してロンドンを占領したことによってノルマン朝が成立しました。この一連の流れのことをノルマンコンクエストといいます。

このノルマンコンクエストによってイングランドでは実質的にフランスの王朝に支配されることになり、これが現在の英語やのちの争いに発展することになるのでした。

百年戦争とばら戦争

イギリスとフランスがいわゆる親戚みたいな形になった後、フランスではカペー朝が断絶してしまい、代わりの王様としてヴァロワ家からフィリップ6世が即位しました。

しかし、上に書いた通りフランスとイギリスはこの当時親戚みたいな間柄。そのため王位継承権もイギリスも持っていたのです。

これを受けて1337年にイングランド王エドワード3世がフランスの王位継承権を主張するようになり、フランス領に侵攻を開始。これがいわゆる百年戦争の始まりでした。

開戦当初は息子であるエドワード黒太子の活躍もあってフランス軍を圧倒。フランスを一時期降伏させて、イングランドとフランスの統一王朝が成立するなどフランス全体がイングランドになりかけていましたが、その直後にフランス王シャルル7世とジャンヌ・ダルクによる巻き返しによってオルレアンが奪還。大西洋沿岸のイングランドも次々と占領されてしまうこととなってしまい、1453年にはイングランドが占領していたボルドーが陥落。カレー以外の大陸領土を失ってしまいました。
さらに百年戦争の直後からはランカスター家とヨーク家が争ういわゆる薔薇戦争が勃発。

最終的にはランカスター家の勝利に終わり、テューダー朝を起こすのですが、百年戦争と薔薇戦争によって諸侯が次々と没落していく時代に。さらには封建制度は崩壊したことによってここから絶対王政の時代がやっていくことになります。

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