教養歴史

やりたい放題!ヘンリー8世と彼に翻弄された王妃たち

エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世というイングランド国王3人の父でありイギリス国教会の創設者でもあるヘンリー8世。跡継ぎ欲しさに欲しさに離婚や処刑を繰り返し次々に王妃を取りかえていった国王として有名です。彼に翻弄された王妃たちを通じてヘンリー8世の姿を少し追いかけてみましょう。

王子時代

image by iStockphoto

ヘンリー8世はヘンリー7世の子として生まれました。兄アーサーがいたため、最初は王太子ではありませんでした。このアーサーは体が弱く、15歳で病没してしまいます。このため、次男だったヘンリーが王太子に繰り上がったのです。

青少年期はまさかのイケメン!

HenryVIII 1509.jpg
By Attributed to Meynnart WewyckTudor England images, パブリック・ドメイン, Link

でっぷりとした中年期の肖像画が有名ですが、青少年期のヘンリーはすらりとした長身でスポーツマン、勉強も得意という非の打ち所がない王子様でした。

しかし、彼は人に言えない恋をします。その相手こそ、王太子アーサーの新婚の妻です。しかも兄王子は妻を娶ったばかりで病没するという悲劇に。

異国に嫁いできて心細い兄嫁を支えたいと、ヘンリーは彼女に求婚します。

最初の結婚

兄嫁の出身はスペインのカスティリヤ王家の出身ですが、飛ぶ鳥を落とす勢いのハプスブルク家とも深い関りがあり、国王ヘンリー7世としてもみすみす帰国させるのは得策ではありません。莫大な持参金まで返却しなくてはなりませんから。

しかし、当時のキリスト教社会では兄弟姉妹の配偶者との結婚は近親相姦に値し、禁忌とされていました。そこで、ヘンリー親子は彼女とアーサーの結婚を性的な結びつきのない「白い結婚」とし、教皇にヘンリー王子との結婚を半ば強引に認めさせました。

なお、最初はヘンリー7世が息子の嫁と結婚することを目論んだのですが、あまりの節操のなさにスペインがドン引き、母であるイザベル女王は大激怒してしまった…という話です。

キャサリン・オブ・アラゴン

この兄嫁こそがメアリー1世の生母となるキャサリン・オブ・アラゴンです。最初のうちはヘンリー8世の恋女房だったんですよ!

二人の結婚式はヘンリー7世の死後、ヘンリー8世として即位間もなく挙げられました。当時激動期を迎えていた国際情勢のせいでキャサリンの立場は非常に苦しいものでしたが、颯爽と救いの手を伸べたヘンリー8世。騎士道物語そのものの姿だったことでしょう。

メアリー王女の出産と失われた寵愛

キャサリンはなかなか子宝に恵まれず流産を繰り返したのち1526年メアリー王女を出産。ヘンリー8世はこの長女をことのほか可愛がったといいますが、幸せは長く続きませんでした。

というのも、ヘンリー8世は男の子の世継ぎを熱望したからです。ご存知のようにイングランドの王位は女子にも継承権があります。しかし、父ヘンリー7世を祖とするチューダー朝は成立から日が浅く、求心力に欠けているのが実情。

事実ヘンリー7世はヨーク家・ランカスター家の争い(薔薇戦争)を武力で制し王位に就いたわけですから、政局が盤石ではないときは男性君主のほうが望ましいのです。しかし、メアリーの後に男子を死産したこともあり、ヘンリー8世の心はあれほど熱愛したキャサリンから次第に離れていきます。

離婚問題

ヘンリーの関心はキャサリンの侍女であるアン・ブーリンに移りました。アンとの結婚を決意したヘンリーですが、これに教皇庁が大反発。カトリックでは離婚は認められず、どうしてもする場合には結婚無効にしなくてはならないのですが、キャサリンとの結婚の際に教皇の許可を得てしているため、誰がどう見ても正式な婚姻でしかないからです。


当時神聖ローマ皇帝位にあったキャサリンの甥カール5世も国際情勢を鑑みて反対し叔母をアシスト。また、キャサリンは女子教育に注力したり、ロンドンの暴動に際し苛烈な処断を敢行しようとした夫を説得するなど市民を庇うことも多く、国民から大変な人気がありました。ヘンリーの留守に摂政として立派に務めを果たした実績もあり、貴族にも好意的な人が多くいたのです。


彼らは慈悲深く、優れた人格と能力を持つ王妃を慕い、離婚に反対をしました。しかし、数多の反対を押し切ってヘンリーは離婚を断行します。

イギリス国教会の設立

教皇に逆らうものは破門の危険がありました。当時の「破門」は現在と比べようもなく重く、キリスト教社会で生きていくのが困難なほど。国王ですら本来であれば逆らえないような権威を持つものでした。

しかし、ヘンリー8世はイギリス国教会を設立し、教皇の支配から離脱を図ります。そしてイングランドにおける宗教改革を推し進め、1534年には国王至上法を発布し自らが英国国教会の首長の座に就きました。この時カトリックの立場から改革に反対したトマス・モア(「ユートピア」の著者)が処刑されています。

1538年教皇パウルス3世に破門されても、自身の権威が揺らがぬように準備を進めていたわけです。

次のページを読む
1 2 3
Share: