日本の歴史昭和

なぜ広島に原爆が?原子爆弾投下までのアメリカの思惑をわかりやすく解説

あなたは「ヒロシマ」と書かれていたら何を思いうかべますか?「広島」ではなく「ヒロシマ」とカタカナで書かれているとき、そこには特別な意味がこめられます。それは「原子爆弾が落とされた場所」という意味です。なぜ、ヒロシマに人類の歴史上初の核兵器が落とされたのでしょうか。その理由をみていきましょう。

原子爆弾開発の流れ

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原子爆弾は1945年8月6日、午前8時15分にアメリカ合衆国によって広島に落とされました。今でさえ同盟国とよばれるアメリカですが、第二次世界大戦のときは敵同士だったのです。そんなアメリカが進めた原子爆弾の開発計画を「マンハッタン計画」といいます。

枢軸国 VS 連合国

第二次世界大戦は、ドイツ・イタリア・日本などの国からなる「枢軸国」と、アメリカ合衆国・イギリス・ソビエト連邦を中心とする「連合国」の対決でした。「枢軸国」と「連合国」には大きな違いがありました。それは、「植民地」をもっていたかどうかです。

1929年にアメリカから始まった世界恐慌は、それまでの国際強調の路線を台無しにし、国際的な対立を激しくするきっかけとなりました。アメリカ・イギリス・フランスなどは自分の国が生き残るために、植民地など自国と深い関係をもっている地域との関係を密接にし、他国との協力や貿易をやめてしまったのです。

これに対し、ドイツ・イタリア・日本などの植民地をもっていなかった国は、生き残るために軍事力をつかって、国外に勢力をのばそうとしました。そしてこれらの国は、基本的人権や自由をおさえてでも、国民を国家に奉仕させようという考えのもとに政治を行っていきました。

 

亡命ユダヤ人の声でスタートしたマンハッタン計画

大戦中、原子爆弾の開発を進めていたのはアメリカだけではありません。イギリス、ソビエト連邦、ドイツ、実は日本も開発を進めていました。これらの国の中で、当時もっとも原子物理学研究が進んでいたのはドイツでした。

第二次世界大戦中のドイツといえば、国内でひどい人種差別政策をとり、何百万人ものユダヤ人を収容所におくってガス室で殺したりしました。ドイツの迫害からアメリカに逃れたユダヤ人科学者たちは、こうしたヒトラーの非人道的なおこないに危機感を抱き、「ドイツが原爆を完成させれば、連合国は手も足も出ず、世界はヒトラーの手に落ちる!」と考えます。そこで、亡命したユダヤ人物理学者のレオ・シラードらは、アメリカのルーズヴェルト大統領に原爆の研究を進言する手紙を出しました。こうした背景をもとに、アメリカで原爆開発計画「マンハッタン計画」が始動します。

つまり、アメリカの原爆開発はドイツを念頭におかれていたのです。しかし戦争が進むにつれて「日本への原爆投下」も検討されていきます。1945年5月8日にドイツが降伏すると、それが現実のものとなっていくのでした。

なぜ広島と長崎だったのか?

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原爆を落とす場所はどのように決められたのでしょうか?日本のどこに原爆を落とすかを話し合ったのは、原爆開発に携わるアメリカの軍人と科学者たちでした。ここで決まった内容を大統領の側近や大統領に伝え、承認をもらいます。

意見がわかれた原爆投下地

軍人や科学者たちは「原爆を落としたときに、破壊の効果が最も大きい場所」を探しました。その条件が、「人口が集中する地域で、直径5キロ以上の広さがある都市」、「8月まで空襲を受けず、破壊されていない都市」です。

これに対し、トルーマン大統領と側近の陸軍長官スティムソンは、投下目標は「軍事施設」でなければならないと考えていました。戦争で市民の死が避けられないことは分かっていても、意図的に多くの無関係な女性や子どもを殺戮に巻き込むことは違うと思っていたのです。

元々、軍人や科学者が第一候補にあげたのは京都でした。しかし、大統領や側近たち、とりわけ京都を訪れたことのあるスティムソンは、猛反対しました。主な軍事施設もなく、一般市民が多く暮らす京都に原爆を落とせば、多くの一般人の命が奪われてしまうことは明らかでした。そうすれば、国際社会の非難を浴び、アメリカのイメージを悪くするため、国益にも反すると考えたのです。

被爆地は「ヒロシマ」「コクラ」かもしれなかった

最終的に、原爆を落とすのは、広島市小倉市(福岡県)長崎市に決まりました。特に広島は、広い平地でまわりを山に囲まれており、大きな効果があげられるとともに、原爆の威力を測定するのにも適していたので、最初の投下地に決まりました。もちろん広島にも多くの一般市民が生活していましたが、広島は港が軍事物資の供給基地になっており、日本軍の司令部などがおかれた軍事都市だったため、大統領たちも反対しませんでした。

こうした理由から、1945年8月6日午前8時15分、世界で初めて実戦で原子爆弾が広島に落とされました。アメリカ軍はすぐに2発目の準備をします。8月9日、実はこの時、原爆を積んだ飛行機が向かったのは長崎ではなく、小倉でした。しかし、前日に空襲を受けた隣の市の大火災の煙が小倉の町をおおい、投下目標が確認できなかったのです。飛行機は小倉への投下を諦め、長崎へ向かいました。そして8月9日午前11時2分、2発目の原爆が長崎市内上空で炸裂しました。

この2発の原爆は、熱線・爆風・放射線による病気で、広島と長崎にいた多くの人を死にいたらしめました。さらに生き残った人にも、今なお続く深刻な後遺症を残したのです。

原爆投下をめぐる様々な意見

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原爆は広島と長崎の多くの人の命をうばい、日本だけでなく世界中を核戦争の恐怖に陥れました。戦争が終わった後、世界中の様々な人たちは「原爆投下は必要だったのか?」ということを考えます。

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