幕末四賢侯とよばれた松平慶永の活躍と挫折
松平慶永が福井藩主となったとき、福井藩の財政は破綻状態でした。慶永は支出を減らすとともに新しい産業を興して藩の財政を立て直します。慶永は人材の育成にも熱心で藩校の「明道館」を創設しました。1853年、ペリーが浦賀に来航することで対外関係の緊張が一気に高まります。同じころ、13代将軍家定の跡継ぎを決める将軍継嗣問題で幕府は揺れていました。将軍継嗣問題を決した大老井伊直弼は反対者を弾圧する安勢の大獄を実施し、慶永も引退に追い込まれます。
藩財政の再建と産業の育成
慶永が藩主となる以前から、福井藩の財政は破綻状態となっていました。先代藩主の斉善は幕府に対し、90万両の借金があることや、返済のために領地を増やして欲しいことなどを要望します。他にも、火災で焼失した江戸上屋敷の再建や不作の補填などで幕府から支援金をもらっていました。
藩主となった慶永は、藩士の全俸禄の半分を3年間削減し、藩主自身の出費も5年間削減する倹約令を発布します。慶永は熊本藩士横井小楠を福井に招聘。産業振興策などの出張講義を行ってもらいました。
これに感化され財政学を学んだのが由利公正です。由利は藩札の発行や特産品の専売制などを組み合わせて財政再建を図りました。また、由利は藩の特産品である生糸を海外に輸出する道を開き藩の収入を増加させることに成功します。
藩校「明道館」の創設
藩政改革を推し進めたい松平慶永は、人材育成にも力を入れました。1855年、慶永は藩校の「明道館」を設立します。もともと、大谷半平の屋敷があった福井城三の丸を御用地としたうえで明道館の建物を建設しました。
財政再建に活躍した由利公正も明道館で学んだ学生の一人です。熊本から三顧の礼で迎えられた横井小楠が講義を行ったのも明道館。福井藩にとって、明道館は頭脳といってもよい役割を果たします。
1857年、明道館の事実上の学監に橋本佐内が就任しました。慶永の側近として藩政で活躍した人物です。明道館は明治維新後に明新館と改名し、福井城内に移転しました。明新館は旧制福井中学校になり、現在の県立藤島高校の前身となります。
ペリー来航により激変した対外情勢
1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが神奈川県の浦賀沖に現れました。ペリーは最新鋭の蒸気戦艦を含む4隻の巨船で日本にやってきます。ペリーの艦隊はその外観から黒船と呼ばれました。
ペリーは幕府に対し、フィルモア大統領からの親書を提出。開国を迫りました。老中阿部正弘は翌年の回答を約束し、ひとまずペリーを帰らせます。
ペリー退去後、阿部は諸藩主に意見を求めました。当初、慶永は水戸の徳川斉昭や薩摩の島津斉彬らとともに外国人を追い払う攘夷を主張します。そのために、海防を強化すべきだとし、江戸湾の防備を固めることなどを進言しました。
しかし、老中阿部正弘にたびたび意見具申をするなど交流を深めるにつれ、開国論へと転じます。また、慶永の参謀役だった藩士の中根雪江も慶永に開国を進言しました。
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